2012年11月 のアーカイブ

有住洋子著『儚』 2012年12月  文芸社

2012年11月30日 金曜日

以前同じ出版社から『閾』というエッセイ集を上梓していて、この本はその第二集ということになるのかもしれない。しかし、今回は以前より内容が物語的だ。小説的と言ってもいい。多分、大方の人が、この内容を書けば小説になるのだろう。しかし、有住氏のシュールな筆致によって現実の世界が彼岸に置きかえられてしまう。そのために小説の漂わせる巷塵の匂いがない。『儚』はテーマであると同時に有住氏の透徹した思想でもあるのだと思う。物語を書きたいのではなく、そこにあった空気を拾いだそうとしているかのようだ。

『現代俳句を歩く』 2012年11月  遊牧社

2012年11月30日 金曜日

塩野谷 仁氏が代表を務める「遊牧」に連載された秀句鑑賞を編纂したもの。第一章は、遊牧内部の句を仲間が鑑賞したもの。第二章は「好句を探る」、第三章の「遠交近交」は主宰自ら執筆する鑑賞篇。いづれにしても、「遊牧」で秀句を見つけだして鑑賞した一集である。こうした本は、一回読んでおわりにはならない。結社でも折りにふれて紐解く一書になるだろう。

宗田安正著『最後の一句―晩年の句より読み解く作品論』 2012年11月 本阿弥書店 

2012年11月30日 金曜日

最晩年に焦点をあてた作家論である。夏目漱石からはじまって摂津幸彦まで26人。作家の最晩年の位置から生涯を見通していることで、作家論が成り立っている。本書をよみながら、しみじみ俳句は「あいさつ」即ち存問の文学であることを実感した。

坂口昌弘著・評論『平成俳句の好敵手ー俳句精神今』 2012年12月 文学の森

2012年11月30日 金曜日

タイトルの好敵手ということばから想像出来るが、時代性、志向性、師系などの共通項から組み合わせて、好敵手の相違点を展開してゆく。そんな中で、「--人生において何かの偶然のきっかけによって十七音か三十一かを選ぶことになり、一度定形の魔力に魅せられればもう離れられない宿命を背負うことになるようだ」という一文がいかにも俳人ではない外側にいる評論者らしいことばだと思った。

有馬朗人第9句集『流転』2012年11月 角川書店

2012年11月30日 金曜日

霜の花咲かせ錬金術師住む
北海の港大きな染卵
狐火の村へ携帯電話かな
昼寝覚エデンの東より戻る
絹の道宿の大きな金魚かな
汝もまた神の子なるぞ蠅生まる
耳無し芳一語れば水母騒ぎけり

二句目の染卵の存在感にことに感心した。いかにも日常のようにも思えてしまう復活祭の卵である。句集では「狐火」、「絹の道」、「耳無し芳一」などの言葉がの取り合わせによって新鮮な世界であることに堪能した。今回の句集もまた、世界を行き来しながらの作品集である。

鈴木鷹夫第六句集『カチカチ山』 2012年11月 角川書店

2012年11月30日 金曜日

紙に火をちかづけてゆく春の暮
馬の四肢くぐる蝶あり白かりし
船笛が港出てゆく椿かな
蟻地獄落ちしか妻の見当たらぬ
釘箱を作るに釘や百日紅
古蚊帳は貧乏神の匂ひせり
虫籠の戸口の鍵のいいかげん

人柄は生き方の表出でもある。それがまた俳句にも表出されているのが鈴木鷹夫氏の句集の句集たる所以にもなっている。一見洒脱な句風であるが、構図として「船笛が港出てゆく椿かな」の句があり、感覚として「古蚊帳は貧乏神の匂ひせり」がある。

佐怒賀正美句集『天樹』2012年11月   現代俳句コレクション

2012年11月30日 金曜日

土器の縁より枯の世を見渡しぬ
句碑の前みな夏潮へ下りてゆく
天国の隅にも欲しや夜店の灯
天守跡まで飛び来たる落し文
仁王の目はるかに水の澄みにけり

視野に入った句を抜き出したまでのことだが、改めて読みなおすと、どの句も意外な展開へ誘いこむ。一句目の枯の世界の提示が「土器の縁より」。夏潮へ下りてゆく、その端緒が句碑の前からと区切るのもさり気ないように見えながら風景を目覚めさせている。三句目の天国と夜店、四句目の天守跡と落し文、仁王と水澄むの配合もうっかりすると通り過ぎてしまうほどさり気ないのに、気がつくと非日常なのである。

エネルギッシュな街・香港

2012年11月28日 水曜日

以前、突発性難聴に襲われて以来、海外旅行はしていない。だから今回は10年、いやそれ以上の久しぶりの海外の旅ある。香港はとにかくエネルギッシュな街だと思った。駅のエスカレーターの早いこと。これでは絶対お年寄りは乗れない。電車に乗り込んだら、連れの一人がドアーに挟まれているのにぐいぐいと戸が閉まってしまう。三日間の食事に寄った規模の大きなレストランのどこも満員。朝食のお粥をとる小さな個人店も満員。

予定通り初日の夕食は上海蟹づくし。上海蟹をむしゃぶりつくところから始まる。翌日の朝は、やはりお粥である。これまでの中国旅行での粥は本当に何も入らない白粥そのものだったが、ここ香港で二度食べた粥は白粥には違いなかったが濃厚な味が付けられている。そうして粥の種類が多い。圧巻は2日目の夜の海鮮料理。その蝦蛄の大きさに度肝を抜かれた。西洋皿に3匹の蝦蛄が唐揚げになって並んでいたが伊勢海老、否それ以上の大きさで、それが真中から切って運ばれてきた。その蝦蛄をさらに切り分けて7人で食べたことを言えば、その大きさが想像できるだろう。本来はそうした料理を食べながら歓談に時間を費やすのだが、我々は飢えた餓鬼のように食いあさって会話も忘れてしまった。

二日目の昼間、金魚街やフラワーマーケット、そしてバードガーデン。これは小鳥好きの人達の情報交換の場であると同時に小鳥や小鳥籠や餌を販売している。生きた虫が袋に入って売られている。昼食の飲茶の店は予約が出来ないらしく、Aさんの秘書がテーブルを押さえて待っていてくれた。我々はやっぱり俳人グループだから、しっかり午後はAさんのオフィスの会議室で句会も行った。

風景スポットはやはり定番の香港夜景、ヴィクトリア・ピークの眺めということになるだろう。当日は小雨模様の一日だったので覚悟はしながら山頂に向かった。香港のビルの高さは百階建てなど当り前の高さ。それが林立するこちら側と対岸のビルの林立の灯は確かに想像しただけでも壮観だが、今回は霧の中の灯。しかし、ときどき対岸の灯が見えたり隠れたりしてかえって幻想的な夜景を堪能した。

深夜のホテルへの帰り道で、腰の曲がったような老人が店から出る段ボールを手押し車に乗せている光景を幾度もみた。それが老人の仕事であるかのような光景だった。Aさんが「貧富の差も大きいんだ」とつぶやいた。

『舞』2012年11月号  主宰・山西雅子

2012年11月19日 月曜日

現代俳句月評 筆者 小川楓子

夏霞から歩み来てメニュー置く    岩淵喜代子 
               (「俳句」九月号)

 誰がどうして夏霞から歩いてきたのか、そしてなぜメニューを置いたのか、推理小説のプロローグのように謎めいている。高原のオープンカフェで、立ち込める夏霞の方向からウェイターが客にメニューを置きに来た、とまずはイメージする。だが、夏霞の効果によって、ウェイターの存在が曖昧になり、唐突に置かれたメニューのみ際やかになる。一句を何度も読み返すうちに、本来は、食事を決める選択技の記された小冊子であるメニューが、読者の前にふいに提示されることで、それが、未来から届いた手紙のようにも、メメント・モリ―必ず死ぬことを忘れるな―という警句にさえ感じられ、終ることのない物語が引き出される。

『汀』2012年11月号 主宰・井上弘美

2012年11月19日 月曜日

現代俳句私解    筆者 湯口昌彦

夏霞から歩み来てメニュー置く   岩淵喜代子
               (「俳句」九月号)

「ににん」代表。「鹿の背を撫でれば硬し半夏生」から「半夏生」と題する新作12句。掲句は「夏霞」の存在を「メニュー置く」という行為も、それぞれ日常だが、これを「歩み来て」で結んだ結果、非日常を感じさせる句となった。霞は春にたなびくものだが、「夏霞」は遠く見通しがきかないこと。すなわち、「夏霞から」というカオスを提示しておいて、その後の予測困難な状況を「メニュ置く」という卑近にして具体的な行動を提示することにより、不思議に心のどこかを刺激する句に仕上がった。同時掲載の原雅子の「岩淵喜代子小論」は「現実の向うへ」と題し、「箱庭と空を同じくしてゐたり」他を例句に挙げている。

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