2011年1月 のアーカイブ

星野 椿句集『金風』 2011年 ふらんす堂文庫

2011年1月28日 金曜日

これまでの作品から『金風』という括りで一集にしているが、最新句集とそれ以後に重心をおいた編纂になっている。

  ものの芽のなにか分からぬ小ささよ   「早椿」昭和48年
  金風や傘寿となりて分かること      平成22年

八十歳まで俳句を続けていられれば、もう脱皮から脱皮を繰り返して、黄金の蝶になっているのではないだろうか。黄金の蝶は、その存在そのものだけで美しい。舞い方とか、色合いとかそんなことを考えなくても在ることが美しいのではないだろうか。そんなことを思わせる一句である。「傘寿となりて分かること」という一語の奥行きを想う。否、想わせる俳句である。

  蝶々に大きく門の開いてをり       昭和51年
  母と手を振り別れたる月の窓       昭和54年
  松蝉に夕風揃ひはじめけり        平成10年
  あの辺が小諸と思ふ冬日かな      平成11年
  綿虫の舞つて手を振る別れかな     平成18年
  船上に花火見てゐるこんな日も      平成22年

鳴戸奈菜句集『露景色』 2010年  角川SSC刊

2011年1月28日 金曜日

日常をどのように表現するか、俳句形式にとってそれが大きな課題である。鳴戸氏の詠み方は何でもない日常、誰もが見えているごく当たり前の風景を作者の言葉で鮮やかに浮かび上がらせる。

  冬うらら隣の墓が寄りかかる
  啓蟄のまなこが蟻を拾いけり
  春の池泳げぬ魚いるはずよ
  蛇の舌見えるか蛇口という言葉
  十二月鏡が見ている家の中
  薄氷ときに厚しや世の情け
  お花見の手足はいつもいっしょなり
  生きている人がたくさん初詣
  月蝕の夜は街角を船がゆく
  空蝉の鳴く声母のいない部屋
  金魚玉落ちて金魚が踊りけり

武田肇第四句集『ダス・ゲハイムニス』 2011年1月刊  銅林社

2011年1月28日 金曜日

詩集が十七編、句集が1993年以降四編という精力的な作品制作過程がある中の第四句集目。

この句集には三つのキイポイントがあるように思われる。それは月と60年と江戸である。この三つのキーが頁を繰るごとに立ちあがって、おのずとイメージを立ち上がる、月光という媒介によって江戸と現代が結ばれている。プロフールが無いので、想像なのだが、60年は作者の生きて来た年月なのかと想像している。

  月を見て六十年の明るさよ
  六十年そこに蟲籠置く手ある
  六十年前のいへから蠅逃す
  六十年前の西日すこし動く

  裏木戸に人一人出す天の川
  名月や知恵の輪はづれ裏戸あく
  去にしあと月宮殿となる廓
  名月のかさなりあうてゐるやうな

  江戸は春お化け煙突美女四人
  秋冷や釘は打たれてをりにけり
  われのほかゆきどころなし桃の種
  花の晝江戸もヴェニスも舟は反り

小原琢葉第八句集『不動』 2010年11月  角川学芸出版

2011年1月28日 金曜日

  老ひとり風となるまで耕せる
  婆さまの言葉のわかる葉抜鶏
  ここからは?となる樹木葬
  春の駒海の高さを歩むなり
  小屋の鶏一日放して垣手入
  老の身に次の日ありて天高し

大正10年生れ、第七句集『平心』は詩歌文学賞を受賞している。透徹した詠みぶりは老いの覚悟の裏打ちにもよるだろう。一句目の「風となるまで」には生涯の象徴が感じられる。

倉橋羊村第五句集『幻華』 2011年1月  角川書店

2011年1月27日 木曜日

倉橋氏には水原秋櫻子や虚子、道元の著書が多数あるが、中でも「道元」はライフワークになっている。『幻華』はその倉橋羊村らしい句集名である。

……本句集の対象5年間に、同門の身近な先輩藤田湘子、能村登四郎、有働亨、林翔が亡くなった……。とあるが、『幻華』はそれらの人達を象徴する句集名のような気がする。それが、句集の随所に現れる。

   風出でて月光ゆらぐ花辛夷
   美しく果てむと炭火瞋るなり
   落栗や羅漢刻みて石五百
   冬鏡まぐれ光りの長寿眉
   木枯しのあとの月明大欅
   僧体は又の世とせむ竹酔日
   控へ目や昭和一桁白絣
   瞑れば道元の冬青空があり

同人誌とは 2

2011年1月26日 水曜日

愛読者諸君。くどいようですが申しあげます。
仲間の雑誌といふことと、一人の雑誌といふこととを考えて見ると、一人の雑誌といふ事は非常に狭いやうに考えられます。また実際狭いものだと思います。若し従来のやうに自分一人の文章で埋めるとなると其は極めて狭いものであります。併し一旦編輯といふ事にも力を注ぐやうになりますと、一人の雑誌の方が却って仲間の雑誌より広いものになるやうにも思われます。

23日のブログに引用した虚子の言葉を再び取り上げる。この論は実際に編集を携わっているものにはよく解るのである。大勢はいい案がたくさん出ると思いがちである。たしかに出るかもしれない。しかし、それが精鋭の特殊な天才的な編集能力を持っている人が集まるなら、確かにそれはいい案も出るだろう。

あるいは、編集が好き、雑誌に夢を持つと言った人達ばかりで構成されていれば、それは何か新たな画期ある企画が生まれるかもしれない。だがそんな集団はなかなか実現出来ないし、その夢のぶつかり合いで、同人誌は三号雑誌になるのである。俳句同人誌のように普通に集まった編集員が構成されたとしても特殊なピジョンを持っていなければ、きっとこれまでの既成の雑誌の好みのところを提案するに過ぎないのである。

そうだとすれば、なんら刷新された紙面にはならないで、どこにもここにもある雑誌と大同小異になるだけである。さらには、その集まった人たちの多数決で決まるとしたら、それは全員が百パーセントの納得で決まったことにはならない。何処かに不満を抱えながら携わるのは、雑誌に対する気持ちの萎えとなる。そんな不満を抱えた雑誌を読者も面白いとは思わないだろう。

とは言っても俳句雑誌であるから俳句を載せる、俳句の評を載せる、文章を載せるということになるのだから、変化はデザインくらいしかないかもしれない。第一内側の人が、作品を乗せられればいい、というだけで編集に対する特別な雑誌を臨まなければ、なおさら一人奮闘するしかないのである。

ひとり密かに、どこか中身から匂い出すような顔を持つ雑誌にしたいと念じている。中身がよければ解る人は解ってくれると言う人もいるだろう。しかし、その前に手にとって貰わなければ中身は読めないのである。

高浜虚子

2011年1月23日 日曜日

20日同人誌について触れたが、明治45年6月号の「ホトトギス」には虚子の編集に対するかすかな躊躇が書き込まれているのを知った。虚子の言葉は昨年11月に亡くなったばかりの黒岩比佐子著『古書の森』の中で知った。この本に触発されて図書館で「ホトトギス」を開いてみた。

「ほととぎす」明治45年6月号では、島村抱月・森律子・徳田秋声・佐藤紅緑・安部能成・森田草平・内藤鳴雪などの顔ぶれが執筆している。一見なんでもないことのように思えるが、これは文芸協会公演『故郷』の特集のようなものになったのである。編集者の偏執的な盛り込み方という見方も出来てしまうのである。虚子もその事を十分自覚しながら、如何にも虚子らしい論を展開している。

愛読者諸君。くどいようですが申しあげます。
仲間の雑誌といふことと、一人の雑誌といふこととを考えて見ると、一人の雑誌といふ事は非常に狭いやうに考えられます。また実際狭いものだと思います。若し従来のやうに自分一人の文章で埋めるとなると其は極めて狭いものであります。併し一旦編輯といふ事にも力を注ぐやうになりますと、一人の雑誌の方が却って仲間の雑誌より広いものになるやうにも思われます。

虚子のこういう書き出しから、編集者が五人いれば、其の中の四人が嫌がるものは載せることは出来ない。しかし一人の雑誌ならその人が載せていいと思うものは悉く載せることが出来て、結果としては趣味の広い雑誌になるだろう、と書いている。見方によっては我田引水式である。このくどくどとした書き方は虚子らしくない。

それは、漱石の人気によって支えられてきた「ホトトギス」四千部の発行部数が、明治四十三年ころにはその三分の一に落ち込んだ事を知れば頷けるのである。それまで編集に参加していた内藤鳴雪・阪本四方太・寒川鼠骨・碧梧桐等と相談して社員組織をやめ、原稿料も全廃した直後の45年の十月には「本誌刷新に就いて」という告示を行い、執筆、編集、発送などすべてを虚子一人で行うことになった。その奮闘振りは「虚子十態」と題した戯画となって雑誌に掲載された。

確かに雑誌の編集はそれに直接携わるものには、自分の本意でないものは載せたくないのである。また自分が嫌だと思うものは、表紙絵一枚使いたくはないのである。そのあたりのことでは、商業誌などの編集者はどんな折り合いをつけるのだろうか。

「愛読者諸君」という呼びかけは、虚子の必死な説得文なのである。子規が亡くなったのが明治35年。それから10年経てやっと虚子自身の「ホトトギス」として出発する時期だったのだ。だが最後にやっぱり唯我独尊の虚子だー、と思わず叫びたい一文に出会うのだった。

ーー本文に用ゐた私という文字は「わたし」ではなく「わたくし」と読んで戴きます。ーー

同人誌とは

2011年1月22日 土曜日

同人誌というのは、現在の俳人協会で存在を認められない会である。認められない、というのは俳人協会に入るには「結社の主宰の推薦」というのが入会の条件なのである。そんなことがどこかに条約として書いてあるのだろう。

このことは以前にも書いたことだが、私個人としては協会員であるからとりあえずは文句をいう筋合いはないのだが、なにか腑に落ちない規約のような気がする。この問題は協会員になっている人たちが考えてくれなくては話は先へ進まないのである。なにしろ協会員でない人には発言する場所もないわけだから。

まーそれはひとまず置くことにしよう。一人で旗を振るほどの体力も気力もないからである。今日パソコンに向かったのは、同人誌の志向である。十周年の記念号には、とりあえず試みを優先しながら進むという方向付けで挨拶を書いておいたが、個人的には他にもいろいろやりたいことはある。

私は本は見かけにも拘るたちのである。手に取った時に楽しいような、温かいような、優しいような等という情感を感じさせたいと思う。勿論中身は同人のそれまでの成果の発表の場に過ぎないのでは、雑誌、ことに同人誌としての志に欠けた雑誌ということになる。

今、その同人誌としての機能を一番発揮しているのは坪内稔典さんの「船団」ではないかと思う。各号でテーマを集結させた特集がある。これこそ、同人誌(志を同じくする人の集団)でnある。「ににん」の場合、今回は「物語を詠む」に集結させたことと、四十二号に収録する「河東碧悟桐」を語る座談会が同人誌らしい活動になったかと思う。

座談会は「原石鼎を語る」として初めて企画したが、それは外側の有識者による座談会だった。今回河東碧悟桐では内部の人で行ったので、何回も集まって、仕切り直しをしながら勉強をし直しては望んだので面白い発言もいっぱい飛び出した。ここにもし外側の知名人を呼んでしまったら、結果が悪くても仕切り直しが出来なくなる。

この仕切り直しを繰り返すことこそが、同人誌の同人たる所以になる。

ににん創刊10周年祝賀会

2011年1月17日 月曜日

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天候に恵まれれば半分は成功といえるかもしれない。このごろの天気予報に耳を貸していると日本中が荒れ模様、大雪注意報みたいな錯覚になるが、東京はとりあえず快晴だった。ほっとしながら早目に会場に入るともうロビーには先着の仲間がいた。

今回の祝賀会は少人数の会であるからとは言っても手順は同じである。受付の準備や名札の用意、席割の用意で大わらわ。出版社さんと来賓の席を中央にして、それを取り巻く席を仲間が埋めるという形に落ち着いて、会は時間通りに進行し、清水哲男さんが乾杯の音頭。

来賓は東京近郊の人ばかりだったが、仲間には遠来からの人もいて、雪掻きをしてから新幹線に乗ってきたという長野の人や、夜行バスで今朝着いたという大阪の仲間もいた。仲間にとっては「ににん」に寄稿してきた人々の名前と顔が一致する場目であり、来賓の方や出版社の方は、「ににん」内部の執筆者の顔を認識する場であっただろう。

事実、表2に書いている英訳からの「奥の細道」を読み解くのが木佐梨乃さんという30代の女性だったというのを驚いている人もいた。

中締めの正津勉さんは自分がいままで関わった雑誌はたいがい3号雑誌だったから、10年も続いたなんて驚きだが、岩淵さんは30年くらい生きそうだから、また30年後に集まりましょうなどと、いつもの破天荒な挨拶でひとくくりした。

この会でのアトラクションは田中庸介さんの自作朗読、それと、栗原良子さんの「武蔵野」の朗読。久しぶりの国木田独歩の文章を身近な平林寺の雑木林と重ねながら聴いた。

二次会もその席で延々と続いたが、さすがに飽きてきたので、近くでお茶漬け食べてお開きだったが、帰宅は真夜中になっていた。10年とは長いのか短いのか分からない。とりあえず、淡々と 昨日の続きを進んでいくしかない。

それにしても、何があったのか知らないが、人の舞台で出版社を罵るNさんの大人げなさには閉口した。

松取れて

2011年1月13日 木曜日

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松が取れてもとれなくても黒目川の風景は変らない。だが、極寒の季節は水も一番澄んで、ゆりかもめもさらに白く見える。この両岸が散歩コース。辿っていくと、野菜の直販店があり、市立のスポーツジムがある。

「俳句四季」の今月の華とかいうページのための写真を撮りたいというのだけれど、寒いから屋内でいいところがあればという。それで、散歩コースの川辺からわくわくドームまで歩いてみた。そのあと博物館まで廻ったが、案外カメラを禁止している場所が多くて、どういうことになるか。おりあえず、博物館から東洋大学を廻って古民家のお蕎麦屋へ案内しようと思う。

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