駅前広場にこんもりと緑蔭を作っている樹はなんの木なのか。暑くなったこのごろは、緑を見るだけで涼しくなる。それなのに、なんとやっと緑蔭が整った木の枝をばさばさと落としてゆく。写真の右側も同じ樹木であるが、多分今日中に緑を刈り取ってしまうのだろう。
その意図がよくわからない。ここだけではない。なぜか丁度緑蔭を作り始めた街路樹も、みんな棒のようになっていく。これじゃー街路樹を植えた意味もないと思うのだが。
今年は青ばかり、それも極めて濃い藍色。
私の身丈くらいの高さに咲いているので、剪ってきて部屋で楽しむことにした。
このところ、筑摩書房の『高校生のための批評入門』を読んでいる。以前は単行本だったが文庫本になったものを手にした。エッセイだったり小説だったり対話だったり、著者も必ずしも文学者ではないが面白い。後書きを読むとこの本が生まれたエピソードが書いてあって、それが殊に面白いドラマになっていた。
編集したのは、詩人梅田卓夫・プルーストの研究者服部左右一・『海賊の唄がきこえる』の著書を持つ松川由博・文芸評論家清水良典の四人である。こう書くと偉い編集人たちによって編まれたものと思われがちだが、この『高校生のために批評入門』は四半世紀前に発刊されたもの。しかも、その編者たちは、愛知県小牧工業高校に勤務する同僚としての四人だった。筑摩書房の熊沢敏之氏はこの四人がその地域に集まっていたのは奇跡だった、と書いている。
これには、同じ編者の『高校生のための文章読本』『高校生のための小説案内』があって三部作となっているらしい。
(空へ駆けだす)は特異な表現にも見えながら、たしかに突然飛び立つ小鳥の飛翔を言い得た措辞である。自分の感覚を信じなければ詠めない叙法である。 川村研治第二句集『ぴあにしも』 現代俳句の展開Ⅲ-5 現代俳句協会刊より。
句集は昭和61年から平成25年平成25年まで、約27年分の俳句である。一集にするにはずいぶん割愛した句もあっただろうと思った。一読して、川村研治さんの茫洋とした人柄、そのものがすべて俳句に現れた、という思いを強くした。
ふゆざくらふゆのさなかにちりをへぬ
たんぽぽの絮とぶ中やピアノ来る
青鳩を待つ明るさとなりにけり
事実を淡々と受け止める句というのは、その切り取り方こそが生命である。当たり前なような、このさりげなさが、川村研治さんの茫洋俳句の底辺である。
火星接近おしろい花の種をとる
冬支度せねば駱駝の瘤ふたつ
前述の三句に詩的意識をさらに加えたときに、こうした句になるような気がする。芭蕉の言う取り合わせである。一句目は(おしろいの種をとる)によって、火星が地球にぶつかってくるような緊迫感を持たせる。それでいて採っているのは花の種である。その可笑しみこそが川村さんの茫洋さなのである。二句目も非常に面白い。冬支度から駱駝の瘤へゆくまでの見えるか見えないような繋がりこそが俳諧なのである。
鳴りいづる鈴を泉に浸すかな
みんみん蝉のみんみんが見えてくる
一句目はまるで鳴り止まない鈴を泉に浸して鎮まらせようとしているようにも思えてくる。虚実皮膜とは、こういう作り方を言うのではないだろうか。それは二句目に言える。みんみん蝉の啼き声が見えてくる、と言われると、さらに存在感をもつ啼き声になる。
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