2014年4月 のアーカイブ

秩父

2014年4月21日 月曜日

はなJPG  いような遠いような場所が秩父である。というのは、住んでいる地域と同じ埼玉県だからである。それでも、山里として希に見る純粋なもの。なにしろ、秩父線の駅を降り立って、歩けど歩けど駄菓子屋もないという場所が多い。

今日は白久串人形の上演を秩父まで観に行った。1時から始まるというので、先に芝桜で有名な羊山公園に足を運んだ。芝桜はまだこれからが盛りのようだが、明日からは入場料が必要なのだとか。

bunnraku1JPG、午後から白久地域で受け継がれている串人形劇の見物となった。串人形とは二本の串で人形を操るもので、四、五十センチの人形が細部まで行き届いた動きをして、衣装も小さくても早変わり、肩脱ぎと大きな人形と変わらない所作をこなす。演目は、「壺阪観音霊験記」「弁慶上使之段」など。途中で舞台の後ろの秩父線をSLが走り、白い煙が雲のように棚引いた。

そんなに見物客がくるわけでもなく、公民館のようなところの庭にビニールシートを敷いて、座布団をしいて、演目の間にはお茶のサービスまでしてくれた。鉄道も敷かれていない昔からの年に一度の娯楽だったのだろう。ところで、この演じる人も謡う人もいなくなって、東京から太夫さんを呼んできているという。

別ルートで合流した男性が山菜をたくさん仕入れてきてくれて、演目の間に分け合ってお土産もできた。この白久駅から20分くらいのところに30番札所がある。ご開帳の年でもあるので出かけてみた。日曜だというのに私たちの他には人影を見ない。駅には熊が出るので気をつけてという看板が立てかけてある。気をつけてといってもどうすればいいのか。

お参りをすませての帰り道、靴の踵にコツンとぶつかるものがあって振り返るとガマガエルだ。小さくてもガマガエルはちょっと気持ちが悪い。キャーとばかりに足を速めると追いかけて来るではないか。池には、そんなヒキガエルがうじゃうじゃ居た。

 

「ににん」発送完了しました

2014年4月15日 火曜日

OLYMPUS DIGITAL CAMERA日曜日の夕方、ようやく発送手続きのすべてが完了。約半月遅れの「ににん」お手元にそろそろ届くと思います。よろしくお願いいたします。

いろいろなことが重なってしまって、毎年恒例の会のお花見旅行も間際にキャンセルしてしまい、幹事さんにはご迷惑を掛けてしまった。いつも、この会のお花見は、特別有名でもない、ひっそりとした花所で、浮世離れを感じさせてくれていたので残念だった。

そんな気持ちが届いたのか、突然野川の枝垂れ桜は今が見ごろです、というお誘いをうけて先週の土曜日に行ってきた。ときおり花びらが舞うくらいで、本当の満開どきの桜だった。たぶん今日あたりからは、桜吹雪の見事さを味わうことが出来るのではないかと思う。

いまは、この写真がデスクトップに貼り付けて毎日お花見気分でいる。

ににんの発刊遅れ

2014年4月6日 日曜日

__ 「ににん」54号はまだ発送が済んでいない。ぼつぼつどうしたの、というメールや電話が入ってきた。10数年のあいだ、一度も遅刊をしたことがなかったのだが、今回は大幅な遅れが出た。というのは事情があって表紙の摺り直しをしているからである。届いたらわかるのだが、引用の著者名を書かない文章があって、その対応に日にちが掛かってしまった。これまでの年月で、今回ほど困惑したことがない。見つけることが容易にできるはずの物を見過ごしてしまった迂闊さにも恥じている。

だからというわけではないが、こんなにたくさんの桜貝を貰った。あるところにはあるものなのだ。どうしておくのが一番いいのか思案していたら、水を入れたガラス瓶にいれておくのがいいという。それで今、桜貝のきれいに見える硝子瓶を探している。「ににん」の印刷所への対応は終わったので、一週間ほどの間に雑誌が出来上がるのでないかと思っている。

星野高士句集『残響』 2014年  深夜叢書

2014年4月5日 土曜日

『破魔矢』『谷戸』『無尽蔵』『顔』に続く第五句集。

雪折の音に眩しさありにけり
凍鶴の一歩は永遠の歩みなり
冬めくや知る人もなき蝶の息
大根を引いて何かが遠ざかる
二の酉の夜空に星の混んでをり
麦秋の空に鴉の通る道

音が眩しいと言い切るとき。、凍鶴の一歩が永遠だとする切り込み方に。
3句目の(蝶の息)の提示、4句目の大根を抜いた感覚が(何かが遠ざかる)としながらムードに陥らない実在感。
5句目の(混んでをり)というネガテイブな言葉遣いであるにもかかわらずポジテイブな風景に反転している技の冴え。。
麦秋の鴉が空を飛ぶ光景に加えた(通る道)による虚実皮膜の風景。
多彩な抽斗を持つ作家だと思った。そうして、句集全体を貫く「明快さ」が快く響いてくる。それは、別の言葉に置き換えれば星野氏の得た諧謔なのだろう。

岸本尚毅句集『小』 2014年  角川学芸出版

2014年4月5日 土曜日

猫のごとく色さまざまな浅利かな
夏楽し蟻の頭を蟻が踏み
目のふちに水の来てゐる秋の蛇
湯たんぽの重たく音もなかりけり
一つかみ虚空に豆を打ちにけり
うす暗く花粉の多き春なりし
紫陽花と百合向ひ合ふ月夜かな
涼しさや水の中なる鯉に雨
草摘のスカート草にのつてをり

俳句という表現方法を信じて貫いている、と感じさせる作家である。
それは、何が?と思わせる日常の茶飯事を輝かせて提示しているからである。
浅利からの猫の連想、蟻が蟻の頭を踏むという拡大された風景、水の中の蛇の提示、湯たんぽの存在感などなど、じんわりと納得しながら読み進む句集だった。
なかでも、(ひとつかみ虚空に豆を打ちにけり)の深遠な空気に惹かれた。

田吉 明句集『幻燈山脈』  2014年  霧工房

2014年4月2日 水曜日

帯文には自らのことばで以下のようにある

《組曲》のかたちに行(句)を構成することには、時間のなかに行を解き放つことである。それは《物語》がそこに在らうとする、そのなかへ行をあそばせること――《物語》の予想される団円に、そしてより多くは、その予感に生れる情意を、行たちのあひだに《組曲》は構成する

帯に書かれた作者自身のことばを書いておくのが一番わかり易い。いつもののように一句ずつ気になる句を抽出するという句集の読み方を拒絶しているからだ。
第一章のタイトルが「瑜伽台地」その一章の中に  白き夏果て  手  母がわたしに  夕帰  白き佛・・・などなど50くらいの見出しがならぶ。
その小見出しだけ読んでも詩の匂いがしてきそうである。しかも、どこを開いても物語的だ。


母よこの濃き夕翳はあなたの手

母がわたしに
母がわたしに教えてくれた歌の日暮
わたしは右手に花の日暮を摘む
母が私に教えてくれた歌の涙

夕帰
日暮来るたびに焼かれし銀閣寺
鳩吹く暮のひとりは帰らず

作者自身が組曲ということばを使っているように、一節から次の一節へとうつってゆく時間の流れの中に作者の過ごした時間が立ち上ってくる。

したかげ
あぢさゐに鼓を隠し夜ごと打つ

くさかげ
くさかげのひとりの夏にねむる私
昼の深さの奈落に匙の落ちし音

清水和代第一句集『風の律』  2014年  本阿弥書店

2014年4月2日 水曜日

帯文・上田日差子

上田五千石を師系とする山田諒子氏から俳句の手ほどきを受けた清水和代氏は現在「春塘」主宰。

ゴム毬の倒す鶏頭二三本

勢いをもって投げられた毬によって鶏頭の数本が倒れた。鶏頭はまた起き上がったかもしれない。その一瞬の出来事として提示されている。
それだけにも関わらず、その光景が読み手にいつまでも揺曳するのは、ゴム毬の感触と鶏頭の花の感触の不思議な調和が手伝っているかもしれない。

蝌蚪の紐くらりくらりと影もちて

たとえばこの句など、「蝌蚪の紐くらりくらりと」までは誰でも見えている光景である。ここに「影もちて」の措辞が加わることで俄然蝌蚪の存在感が増幅されていく。それが清水和代氏の本領なのではないかと思った。

今生を水鳥でゐて夫婦かな
くちなはの道わたるとき道の幅
踏板を水の乗り越す初螢
船虫にちよいととどまるひげのあり
遠蛙そろそろ膝をくづしても

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