‘他誌からの転載’ カテゴリーのアーカイブ

俳句月評 佐久間敏高

2022年2月5日 土曜日

「ににん」夏号(通巻八三号)
 平成十二年秋、埼玉県朝霞市で岩淵喜代子が創刊。「『同人誌の気概』ということを形にしてゆきたい」をモットーとする季刊誌である。代表岩淵喜代子、編集長は川村研治である。

 本号は同人誌谷原恵理子句集『冬の舟』を特集とし、山野邉茂、林誠司の両氏が当該句集を多角的見地から論評している。また、同人の作品群は、「ににん集」「さざん集」にあいうえお順に収録されている。
 本誌は一般の俳誌と異なり、選評が少なく、高橋寛治の「定型詩の不思議」、西村麒麟の「僕の愛する俳人」、正津勉の「詩歌紀行」の連載など評論やエッセーが圧倒的に多いのが特徴である。また、「ににん集」は、全句が「危険」をテーマとしているのが興味深い。

「ににん集」より
  鏡のやうな冬の泉は危険です    岩淵喜代子
  目にみえぬ危険の匂ひ春の闇     川村研治
  その角は危険な香り冷奴       木佐梨乃
  石鹸玉うすく危険な世を映す     木津直人
  危険なる春爛漫の地球かな      栗原良子
  危険には匂ひありしか沈丁花     小塩正子
  危険とは恐れることよ草いきれ    高橋寛治
  蛍火の危険な闇を手探りで      武井伸子
  危険な男に白き単衣を着せてみる  谷原恵理子
  香水の瓶は鶴首危険な夜      近本セツ子
「さざん集」より
  ロシアンひまわりお辞儀ばかりの母 田中美佐子
  引き鶴の如く旅立つ吾が厳父     千葉 隆
  抱かれて藤房に手を触れし子よ   同前悠久子
  箸莪の花空家となりし写真館     中島外男
  髪留めに溢るる髪や夏近し     服部さやか
  青葡萄寺院の白きロマネスク    浜田はるみ
  急かされて吉野葛買ふ花の雨     牧野洋子
  終点は線路の先の夏の湖      三島やよい
  バス停まる能登半島の青岬      宮本郁江
  連弾の街角ピアノ蔦若葉      村瀬八千代

「ににん」のホームページには、「俳句の俳とは、非日常です。日常の中でもう一つの日常をつくることです」とある。本誌は、「俳誌」というより「文学同人誌」的色合いの濃いのが大きな特徴であり、季刊誌「ににん」がその独自性を保持しつつ、更なる発展を遂げるよう期待し見守ってまいりたい。

まくなぎを払ひはらひて根の国へ

2018年9月30日 日曜日

まくなぎは俗に目まとい、
(まくなぎの漢字)??である。「根の国へ」がどこにあるのか、地底深くとも海の彼方とも、死者が集まる黄泉の国が想定される。
先年、五島列島の福江島柏崎の地、二井岳(または楽、高、)を尋ねた。平安貴族により、古代、根の国の伝承がある地だ。東シナ海を臨む、遣唐使の最後の寄港地として知られ、船人の死者の寄る辺という。来てみると明るい。海洋民族の根は地下ではなく沖の意か。(宮坂静生)

日本農民新聞2018/8/11

水母また骨を探してただよへり    岩淵喜代子

2018年4月19日 木曜日

『遊牧」2018年4月号

ーー好句を探るーー筆者・清水伶

句集『穀象』より。掲句、 一読して、3 ・11の津波による死者の遺骨を探 しているという、未だに拭えきれない大きな哀しみを思 ってしまう。 「骨」とは人間のいのちと死がだきあって いる存在であるから、「骨」を探すという行為は、正に 「いのちを探す」という行為そのものなのである。

あまりにも辛い想いを書いてしまったが、素直な一句 一章で読めば、骨を持てないはずの水母が自分の「骨」 を探してはまた波間を漂っている、という少々メルヘン チックな見立てが独自である。

水母は肉体を抜け出てさまよう魂のように、純白で透 明であり、けがれなく清らかなことは、原始的、宇宙的 な雰囲気もある。 この素朴で律義な生命体の実感が、人 びとに生き死にの神秘を感じさせ、平明な書き方であり ながらも一句全体につめたく皓い光を放っている。 水母は以前よりも一層白く透明になって、深い海の間 を、永遠に自分の骨を探して彷徨っているのである。

忘れよと水母の海に手を濡らす   喜代子

2018年2月号 「天為」 ~新刊見聞録

2018年3月27日 火曜日

   筆者・渡部有紀子

岩淵喜代子句集『穀象』評
「ににん」代表の第六句集。平成29年ふらんす堂刊。栞に「群青」同人で西鶴研究者浅沼璞氏。
詩人の田中庸介氏。

 穀象に或る日母船のやうな影

句集名となったこの句のように、影に着目した作品が多く見受けられる。

 ぬきん出て鳥柄杓は影のごとし
 飴紙めて影の裸木影の塔
 蛇穴を出でて塔には塔の影

影を成すほどに輪郭のはっきりとした、形の確かなものに惹かれる心持ちの作者なのだろうか。

 みしみしと夕顔の花ひらきけり
 ハンカチを広げ古城の隠れけり

タベに開く薄い花弁に重量を与えて、その存在を堅固なものに転換している。遠景の古城を隠してしまうハンカチは、薄い布一枚であっても、読者の眼前を覆って存在感抜群である。 一方で、光を当てても影を淡くしか成さない硝子や水への興味は

 水母死して硝子のやうな水を吐く
 永き日や水にまぎるる鯉の群

のように、果たしてそこにあるのかと尋ねてしまいたくなるほどの存在の危うさを指摘した作品に仕上がっている。

 菱の実をたぐり寄せれば水も寄る

形あるものを引き寄せればついてくる形なきものの姿である。

このように、気を抜いて見ていては、周囲にまぎれて容易には捉えられないものの存在を意識しているのが、作者岩淵氏の句の世界である。先に挙げた影を成す確かな形あるものへの興味は、形の不確かなものの姿を捉えたいと希求した裏返しとさえ思えてくる。

句集の栞で浅沼瑛氏は、俗人と共に暮らし、表面は俗人と同様の生活を営みながら隠者として暮らすあり方を形容した言葉である「陸沈」を使って、句集中の作品にある自己と他者との距離感や、他者への醒めたまなざしを明らかにしている。

その観点をも併せて考えると、形の輪郭がはっきりと捉えきれないものへの関心は、陸沈する作者自身の姿への自虐も込めたまなざしとも言える。

 水着から手足の伸びてゐる午睡
 帰省して己が手足を弄ぶ
 セーターの背中柱に預けをり

自身については、その手足を詠んだ句が多い。輪郭を捉えることさえも難しいものに眼を凝らしてきた岩淵氏にとっては、自分で形を確かめることが身体の中で比較的容易な手足に関心が向くのは当然のことだったのだろう。

 尾のいつかなくなる婦叫の騒がしき
 月光の氷柱に手足生えにけり

今は長々とある蜥蜴の尾が時間とともに消失するように、今は確かにある自分の手足も、いつか無くなるのではと真剣に考えているのではないか。逆に、今はどこにも見えずとも、いつか氷柱に手足が生じてもおかしくないと本気で信じているのではないか。

 生きてゐるかぎりの手足山椒魚

岩淵氏にとつて手足とは、命の尽きる時までのかりそめのものだと言うのだろうか。

 くらやみのごとき猟夫とすれちがふ
 足音を消し猪鍋の座に着けり

他者の存在も自己の存在も、闇に紛れるように容易に消失し得るという感覚が底に通っている句集である。 

2018年3月号『栞』 ~俳書の棚

2018年3月26日 月曜日

筆者・富田正吉

第6句集『穀象』岩淵喜代子(ふらんす堂)

見慣れたる枯野を今日も眺めけり
人類の吾もひとりやシャヮー浴ぶ
椎匂ふ闇の中より闇を見る
順番に泉の水を握りたる
花野から帰り机の位置ただす
踊の輪ときに解かれて海匂ふ
穀象に或る日母船のやうな影
水母また骨を探してただよへり
冬桜ときどき雲の繋がれり
青空の名残のやうな桐の花

岩淵喜代子は見巧者である.自分も他人も闇も風景も動物も植物も凝視している。
〈見慣れたる)は枯野に興を感じる俳人がいる。〈人類の)は透徹した自己を浮き彫りにして面白い。〈うきずりのえに
しがすべて親彎忌)には宗教観が窺える。〈椎匂ふ)は〈暗闇とつながる桜吹雪かな)と同様に暗闇派の面目がある。

(順番に〉は(麦秋や祈るともなく膝を折る)と共に鋭い身体感覚がある。〈花野から)は日常の些事を日記のように残している。〈踊の輪)は嗅覚の働きによる写生で場所が出ている。

〈踊手のいつか真顔となりにけり)も秀吟である。句集中最も光彩を放っているのは動物作品である。(穀象に〉の母船の卓抜な比喩、(水母また)の「骨」の人とのダブルイメージ、〈夜光虫の水をのばして見せにけり〉〈生きてゐるかぎりの手足山椒魚)はいずれも凝視の勝利と言ってょい。

〈冬桜〉も〈青空の〉も〈紅梅を青年として立たしめる〉も見巧者の面目躍如の作品ではないか。〈このごろは廊下の隅の竹夫人)の発見もさすがである。二六六句収録。

2018年3月号「鷹」  ~本の栞

2018年3月25日 日曜日

筆者・植苗子葉

岩淵喜代子句集『穀象』〈ふらんす堂 2017年11月 2700円)

作者は1936年生まれ。「鹿火屋」にて原裕、「貂」にて川崎展宏に師事し、2000年「ににん」創刊代表。本作は第六句集となる。
表題の「穀象」はごく小さな虫で、体に比して長い吻部を持つことからこの名がある。作者は巻頭に、

穀象に或る日母船のやうな影

の一句を置き、さらに表題句に採用した。
その心を次のように明かす。

知らなければその名を聞いて、体長三ミリしかない虫とは思わないかもしれません。その音律からも、字面からも、音語   りに現れてきそうな生き物が想像されます。米の害虫だという小さな虫に、穀象と名付けたことこそが俳味であり、俳諧です。(「あとがき」より)

確かに、この句集には俳味が溢れている。それは私が思うに、自由闊達な発想であり、想像であり、諧謔である。

水母また骨を探してただよへり

水母が骨を探しているという見立ての発想もさりながら、「また」の二文字を加えて物語性まで帯びさせたのが尋常ではない。一瞬でも骨を見つけたと思ったのか。切ない。

半分は日陰る地球梅を千す

季語と取り合わされているのは必ずしも新奇な発見ではない。むしろ当たり前じゃないかとさえ言われそうな事柄である。にもかかわらず、巨大な天体の運行とミクロな人の営みの配合はお互いを愛おしむべきものとして引き立てている。配合の発想の勝利といえないだろうか。

発想といえば、本作では収録句の約一割に「やう(な)と「ごと(く)といった直喩が使われている。藤田湘子が戒めたように、直喩の安易な使用には月並みか独りよがりに陥って失敗する危険がある。しかし、新鮮でしかも納得できるような直喩が強い印象の句を生むことも事実である。以下、本作から数句挙げてみる。

緑蔭の続きのやうな書庫に入る
葛の根を獣のごとく提げて来し
くらやみのごとき猟夫とすれちがふ

ひんやりした空気、立ち並ぶ高い書架。本のページを「葉」と数えることを考えに入れずとも、卓抜な喩えではないか。二句目は「獣」の一字が葛の茂る山の冷たい空気や、葛を提げる節張った指をイメージさせる。三句目は下五が比喩の鋭さと重さを増幅している。
そうかと思うと次のような軽やかなユーモアも見せる。

筆者とは吾のことなり青瓢
呆れてはまた見に戻る大氷柱
山楯子の実を盗み来て本棚に

青瓢との取り合わせや少し大仰な言い方に、照れくさそうな、あるいはいたずらつぽい作者の姿が見えて愉快だ。
この他にも、

放たれて桶に添ひたる大鯰
踊手のいつか真顔となりにけり
足音を消し猪鍋の座に着けり
音もなく西日は壁に届きけり

といった句に好感を持った。最後に、八十一歳の作者の高らかな宣言を紹介しよう。

曼珠沙華八方破れに生きるべし

守りに入るなよ、という叱咤とも取れようか。

2018年1月号「絵硝子」  ~現代俳句鑑賞

2018年3月25日 日曜日

筆者・高平嘉幸

新米に赤子の匂ひありにけり   岩淵喜代子
みどり児の瞳大きく雁わたし
うつむいて幡蜂の声拾ひけリ
(俳壇10月号)

一句目「赤子の匂ひ」とは意表をつく。確かに赤子の匂いは初々しく格別である。新米の匂いも青々しく 新鮮である。作者は恐らくお孫さんでも授かってその喜び を詠ったのかも知れない。

二句日、この句は正に「みどり児」の誕生を謳歌している。「雁渡し」の季語が適切で、 みどり児の将来が幸あれと願っていると見た。三句日、 「蟻蜂」の鳴き声は、いかにも淋しい。その声を「うつむ いて」拾ったという作者の心情が手に取る様だ。小動物に 対する愛情が伝わってくる。

2018年85号「八千草」 ~愛憎俳誌 

2018年3月24日 土曜日

筆者・横川博行

『穀象』岩淵喜代子句集(ふらんす堂)

「ににん」代表第六句集。岩淵喜代子さんは2014年発行の『二冊の鹿火屋』で俳人協会評論賞を受賞されていて、八千草二十周年の祝賀会にもご出席頂き、祝辞を頂戴した。

しっかりと事象を見て、詩の世界を構築していて、それぞれの句に深みがあり、学ぶところが多い。栞には連句の浅沼璞さんが「人称の多様性から」と題してこの句集の鑑賞文を書かれていて興味深い。

読み終えて五句を選んだ後で帯の作者の自選句欄を見ると一句目に山椒魚の句がありわが選句との一致に、嬉しくなってしまった。狐火の句には脱帽。いまや狐火を見ることもなく、いわば架空の季語であるが、鏡を据えることにより、そこに青白い炎がゆらゆらと映ってくるから不思議である。名手の技とはこのようなものかと感じ入った。

生きてゐるかぎりの手足山椒魚
みしみしと夕顔の花ひらきけり
狐火のために鏡を据ゑにけり
奥山の青い氷柱を遺品とす
春遅々と伽藍を繋ぐ石畳

2018年3月号『森』 ~愛贈句集拝見

2018年3月23日 金曜日

筆者・森野 稔
『穀象』岩淵喜代子(朝霞市)

同人誌「ににん」代表の第六句集。「ににん」には個性的な作家が集い、毎号実験的な取り組みがなされていることで注目を集めているが、この句集も極めてユニークである。句集は概ね暦年により編集されることが多いが、この句集はテーマ別に配列されている。しかもそのテーマ自体も曖昧模糊としており、最後まで作者の意図がはっきりしないようになっている。もしかしたらそれが作者の意図かも知れぬ。そうなれば、それにこだわっていても仕方がない。

良い句を選び鑑賞していくしかないと心に決めたが、感銘句がたくさんある。原裕に師事、其の後、川崎展宏に師事という経歴が多彩の顔をもつ作者を見せてくれる。

順番に泉の水を握りたる

中村草田男が幻住庵の芭蕉が使ったという泉に両手を差し入れ、芭蕉の面影を追ったという次の句が想起される。

(諸手さし入れ泉にうなづき水握る  草田男)

恐らく作者も大勢の人とそこを訪れて、草田男を思い、芭蕉を思ったのに違いない。

天道虫見ているうちは飛ばぬなり

(羽わつててんとう虫の飛びいづる 高野素十)

の句があるが、あの表面に見える赤い特徴的な翅は飛ぶ時には役に立たず、その下にある薄い羽根で飛ぶ。作者はそのことは承知しているが、天道虫を見た時にその様子をぜひ確認したくてじっと眺めているがいっこうに飛び立つ気配はない。

しまいには棒でつついたりして驚かせたりする。作者の短慮をあざ笑うようにそのままだ。半ばあきらめてちょっと目を離したすきにいつの間にかいなくなる。自然界の現象は人間の思い通りにはならないものだ。

水母また骨を探してただよへり

水母が漂っているのは、自らの骨を探しているのだという発想はそれ自体大変面白いのだが、決してそればかりではない。深い人生が見えてくる。己の骨を代表とする肉体を離れて浮遊する「たましひ」を水母に作者は見てとっているのではないだろうか。日前の実写風景から幽玄の世界までに遊ぶ喜代子俳句の本質を見る思いがする。

空青く氷柱に節のなかりけり

寒冷地帯の氷柱は途方もなく大きくなる。そして青空の下、芯まで透き通る。そんななかでふと心に止めた理知的な観察。夜ごとに太さと長さを大にする氷柱に樹の年輪と同じように節があってもいい筈だが、それがない。当たり前と思わずに懐疑的にとらえるのは人間のもつ豊富な知識が邪魔をしているのかもしれぬ。

本来の氷柱の持つ美さえまっすぐに捉えきれない人間の哀しさというべきか。

その他触れたかった佳句を抄出しておく。

穀象にある日母船のやうな影
人はみな闇の底方にお水取り

2018年3月号『雲』 ~句集を歩く

2018年3月21日 水曜日

岩淵喜代子句集『句集』評  筆者・関矢紀静

穀象とはまったく不思議な名である。本来は米につく害虫をさす、これを句集の名としたところから、もう作者の世界がはじまっている。

穀象に或る日母船のやうな影

小さな虫と、母船の対比がみごと、思わず納得させられてしまう。そして作者の目は水中の水母へと向いてゆく、この生き物も不思議な生き物だ。

水母また骨を探してただよへり
水母死して硝子のやうな水を吐く
生涯は水母のごとく無口なり

一句日、水母は骨を得て、人間に近づくのだろうか。二句目の水母は生の証として、体内の水を硝子に変えてゆく。三句目の無口な水母、無口だが、存在感がある。

みしみしと夕顔の花ひらきけり
雨乞の龍を崩せば藁ばかり
さざなみのやうに集まり螢狩

夕顔の大きな花の咲く時は、音が聞こえて来るようだ。人は雨ごいに藁の龍を作り、役目が終えれば元の藁に一戻ってゆく。螢の夜は誘い合わせたように人が集まり、話すこともなく螢を見る。日本の美しい景がある。

極楽も地獄も称へ盆踊

日本の民謡は、口頭で祭りや農作の手順を伝え、踊りも所作で伝えてきた。この盆踊りも古くから伝わったものだろう。

菱の実をたぐり寄せれば水も寄る
曼珠沙華八方破れに生きるべし

菱の実と共に寄って来たものは、水だけではなくもろもろの思い。最後の句、あの赤い花を見ると、気持ちが高ぶってくる、八方破れもまた然り。句集を通読すると作者の自在な心が見えてくる。花や動物、虫までも作者の分身なのだ。

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