‘受贈著書’ カテゴリーのアーカイブ

火事かしらあそこも地獄なのかしら   櫂未知子

2017年12月12日 火曜日

火事というのは本当のところ現実感がない。たいがいは遠くから眺めるだけだからである。実際に火事の現場に出会ったらどうなのだろうか。
火事なのか、もしかしたら地獄が見えているのだろうか、という戸惑いの中に置かれることこそが、火事との距離感となっている。
『カムイ』2017年  ふらんす堂より

あまりにも波打際を遍路行く    大牧広

2017年10月22日 日曜日

作者は『砂の器」からの発想だと自解しているが、遍路の境涯が象徴されている。海辺をゆく厳しさ、寂しさ、危うさがひたすら海に添って歩いていく遍路を浮き彫りにしている。

他に
こんなにもさびしいと知る立泳ぎ
老人に前歩かれし日の盛り
吾のなき書斎思へば春夕焼け

「大牧広ーーシリーズ自句自Ⅱベスト100」より

象花子欅は落葉つくしけり   下鉢清子

2017年9月13日 水曜日

954(昭和29)年から井の頭自然文化園で飼育されていた象の花子は、昨年の5月に老衰で亡くなった。象はその大きさを愛され、その姿が愛され、花子と言う親しみやすい名前で愛されていた。(欅は落葉尽くしけり)にはそのすべて託されている。
「下鉢清子句集『貝母亭五百句』 2017年 ウエップ」より

だれか呼ぶ薄墨色の霧の中   佐山苑子

2017年9月12日 火曜日

ここには霧しか実体はない。いや霧という描きにくいものを怜悧に描き出した。薄墨色はまるで霧の陰影のようでもある。その奥から誰か呼んでいるのである。その声を聞いている作者と二人しかいないような世界が、シュールに描かれて美しい。

「佐山苑子句集『余音』 2017年  文学の森」より

歯を抜いて銀のさざなみ寄する冬   秦 夕美

2017年9月1日 金曜日

秦 夕美さんの美意識、表現方法というものの冴えの集約された一句である。歯を抜いた後の道すがらの水辺の風景と取ることも出来る。それだけにはとどまらないで、歯を抜いたあとのざらざらとした感触が映像化されたものとしても、感覚的に共感できる。

現代俳句文庫 秦夕美句集 2917年  ふらんす堂より

口笛に枯野の真中ゆれはじむ   鈴木太郎

2017年8月30日 水曜日

もともと、枯野は風の吹きやすいところである。口笛を吹きながら枯野を眺めていると、野が揺れているのに気がついたのだろう。その揺れを認めたことで、枯野がより鮮明に広がりを見せてくれる。口笛と枯野の取り合わせにより不思議な光景になった。

(鈴木太郎第五句集『花朝』  2017年   本阿弥書店)より

蓑虫の鳴くや衣の十重二十重    浅井民子

2017年8月27日 日曜日

蓑虫は気が付かなければ、雲の糸の端に木の葉の屑が絡み合っているかのように思えてやり過ごしてしまう。知ってしまえば、いかにも俳諧に相応しい季題でもあるのだ。飯島春子はその撒き付いている木の葉を(蓑虫の蓑あまりにもありあはせ)と詠んでいる。掲出句は十重二十重としている。一見写生的だが、その措辞によって人生を象徴しているようにも思える。
浅井民子句集『四重奏』 2017年 本阿弥書店

有罪でも無罪でもよき海鼠かな    岩淵 彰   

2017年8月27日 日曜日

海鼠がまさか悪事を働いたというわけではないだろう。それなら作者が、と戸惑うような句なのだが、海鼠がいかにも海鼠らしい姿になる。日常とも非日常とも思える海鼠ならではの措辞である。

(岩淵 彰句集『楽土』私家版  2017年)より

子を産めぬ男さびしき水の秋    蟇目良雨  

2017年8月26日 土曜日

確かなことだが、なぜか意表をつかれる句である。(子を産めぬさびしさ)というときに、どこか、取り残された疎外感のようなものに共感する。女性がこうした句を作るのは見かけるが、もしこれが女性のそれであれば、水の秋が少し濁るかもしれない。
蟇目良雨句集『菊坂だより』  2017年 春耕俳句会

直会の取りはづしたる春障子    榎本とし

2017年8月25日 金曜日

神酒や神饌が供えられて、家の中ではあるがいつもとは違う世界がくりひろげられている。この句は春障子が季語ではあるが、その肝心な障子はみんな取り外されて、宴の隅に重ねられているのだろう。作者は榎本好宏氏の母堂である。

榎本とし句集『筍飯』  2017年    航出版

トップページ

ににんブログメニュー

HTML convert time: 0.246 sec. Powered by WordPress ME