2014年1月 のアーカイブ

仲寒蟬句集『巨石文明』  2014年1月 角川書店

2014年1月26日 日曜日

栞・櫂未知子 「港」「里」に所属の1957年生れ。

蜂の巣の間取り云々してをりぬ
空港といふ春星の集ふ場所
あめんぼうに是非来てほしい洗面器

一句目の蜂の巣を間取りと置き換える表現、二句目の星がよく見える場所が星が集う場所と置き換わる。3句目はまるであめんぼうに招待状を出すかのようだ。自然と日常のいちまいになった瞬間で俳句を成り立たせている。暗喩のバリエーションである。
その暗喩を感じさせなくなったときに、不思議な空間を掴みとっている。

顔のなき軍服が立つ夏館
人類の太き親指栗を剝く
追羽根のなかなか落ちて来ぬ正午
春の野に広き額を持ち寄りぬ
春昼の入つてみたい座敷牢
人体に表裏ある懐炉かな
巨石文明滅びてのこる冬青空
白靴やどやどやと島踏み荒らす
どのドアーを空けても待つてゐる木枯

西村麒麟句集『鶉』 2013年12月 発行西村家

2014年1月26日 日曜日

2009年に第一回の石田波郷新人賞受賞。1983年生れの「古志」所属。
B6版の約80頁の句集には、230句ほどが収まり、目次もまえがきも後書きもない。きわめて淡々と差し出された一集である。
それはまた『鶉』という王道的なタイトルから、その装丁にもいえる。白い表紙に濃紺の見返しのソフトカバー、そこに布目の感触を持つベージュのカバーに鶉というタイトルと名前が金で押印されているのだ。
その本の造りに麒麟さんの俳句への姿勢、そして俳句を続けていくことへの意志のようなものが感じられて好感を抱いた。
かすかなおかしみを底に秘めた視線で掬いとった作品群である。

いくつかは眠れぬ人の秋灯
虫売となつて休んでゐるばかり
秋晴れや会ひたき人に会ひにゆく
海老曲がる母の天ぷら秋の雨
闇汁に闇が育つてしまいけり
いつの間に妻を迎へし案山子かな
猪を追つ払ふ棒ありにけり
卵酒持つて廊下が細長し
冬ごもり鶉に心許しつつ
むかうとはあふみの向かう冬芒
この国の風船をみな解き放て

榮猿丸第一句集『点滅』 2014年1月  ふらんす堂

2014年1月26日 日曜日

正木ゆう子・高柳克弘・藤本美和子氏の栞。
正木ゆう子氏の文章には2008年の「角川」俳句賞の次点だったことが記されており、しかも、その時の審査委員の中で唯一受賞を主張して激論になった書いてある。激論ということになると、他の審査委員はかなり強硬な反対意見になったということになる。

舌出せば眉上がりたる氷菓かな
暖房の室外機の上灰皿置く
若芝に引く白線の起伏かな
ひるがほや錆の文字浮く錆の中
月見草抜き取れば家遠くなる
真上よりみる噴水のさみしかり
犬じやれて誰彼なしの彼岸かな
自問ばかりやマスクの下のつぶやきは
いちまいの白布として寒波来ぬ
ころもがへ辞書の頁の吹かれをる

俳味という本来の分野をいち早く取得した作家と思う。

河村正浩句集『秋物語』 2014年1月25日  やまびこ出版

2014年1月26日 日曜日

句集『秋物語』はその題名が想像させるように、意識して物語に意識を持ちながら編んだ句集である。
それは、さらに目次を開いて感じるのだ。

忘れられない3月11日
沖縄慰霊の日
続・嗚呼回天
冬の鎌倉
動物園
初みくじ
親鸞聖人七五〇回大遠忌
お星さま
泥鰌つこ
霧の箱根
秋物語
弔いの酒(自由律)

こう並べると、小説短編集、あるいはエッセイ集の目次のようである。

セシウムなんて知らなかつた蕗の薹
婆さまのシャツに横文字沖縄忌
蝉の木の暗がり無数の淋しい目
着膨れて虎の視線の中にゐる
往生は風となりゆく草の絮

本の制作には、俳句として囲んでしまいすぎることで一般読者に伝わらないのではという意識をもちながらの本の制作でもあったようだ。
たしかに現在、句集の読者は俳人のみと言ってもいい。
たしかにこの柵が取り払われることがあるなら、俳句はもっと普遍的に、もっと読者が増えるのではないかと思う。

Windows8ものがたり

2014年1月21日 火曜日

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ウインドウ8を使い始めて3ヶ月半、とりあえず必要なことは使いこなしているのだが、最近のパソコンはすぐに更新を要求してくるので、とても迷惑。先日立ざまにどこかのキーを押してしまったら、更新要求の表示が出た。しばらく席を離れるので「まーいいか」と思ってOKボタンを押してしまった。結果的に何が更新されたのか全く分からず、変わったのはデスクトップの背景画だった。それが気に入らなかったので以前のものにしたかったが、その画像がどこにもない。さらにウエブサイトで探してみたのだが、みんな気に入らないものばかり。

もーまったく、私のパソコンに関わらないで、と言いたい。気に入った画像がないので保存しておいた画像の中から見つけ出した一枚を貼り付けた。まーまーいいかな、と思っている。なにしろこのパソコンと友好関係を結ばなければ毎日が成り立たない。だが、この画像をもう少しこじんまりさせたいのだが、ピクセルを小さくしても、トップ画面は少しも変化しない。以前のパソコンは中心におくことも全体に貼ることも自在だったのだが。

昨日は大寒、晴天のせいか穏やかな日が過ぎる。

正月休みは終り

2014年1月11日 土曜日

 いつもと違う環境になると思考もなんだかでんぐり返ってしまうのかもしれない。指定席1号車の4番DE席の切符をもって乗り込んだが、その「はやぶさ」の一号車というのは、乗車席がほかの車両の半分くらいしかない。驚いたわけでもなかったが、初めての認識だった。

 
 乗り込むとすぐ連れ合いがここだ、と言ったような気がして一番前の座席に座った。座りながら短いから4番から番号が始まるのだとなぜか納得してしまった。それにしても、知っていればこんな入口のドアーのそばんなんて予約しないのにー、とちょっと浮かない気分で席に馴染もうと努力していると、後ろから「あのー、そこ私たちの席だと思うんですが」と遠慮がちな声がかかった。

 「あれー、間違えましたか、すいません」と慌てて立ち上がると連れ合いが「4番だったんじゃーないか」という。私が「ここっていったからでしょう」というと「そんなこと言わないよ」という返事が返ってきた。短い車両でもやっぱり席番号は1番から振られていた。

 
 この経緯は到着してから、娘一家の夕食の場できりもなく笑い転げる話題になった。私も気がついてみれば、なんでそんな風に思い込んでしまったのか分からなくて可笑しさが止まらず、おもわぬ初笑いになってしまった。

 とにかく「はやぶさ」は早い。大宮9:22発の列車に合わせるように、いつもなら乗り換えなくては行けない北朝霞から大宮までを12分ほどの直通電車があるのだ。そうして仙台までノンストップで10:33分に到着、所要時間は大宮から1時間11分だった。

 もう一つの勘違いは石巻の「ににん」会員の赤ちゃんが生まれたので、最後の日のホテルをチックアウト直後にAさんの家に回ってもらった。赤ちゃんに出会ってすぐミクシーにUPされていたお顔が女の子ぽく優しかったというと、「女の子です」という返事が返ってきた。
 

 あれれ、たしか女の子だと思ってメールを出したときに訂正がきたんじゃないかと思った。「我が家の曾孫の5歳の祝いの正装の写真を添付するときには、「お宅は女の子だから3歳でだから直ぐですね」というメールを出したような気がしていた。どこで縺れてしまったのだろう。とにかく、今年も無事に過ごせますよう。

桑原三郎第七句集『夜夜』 2013年12月  現代俳句コレクション

2014年1月4日 土曜日

死んでから先が永さう冬ざくら
老人を日向に出して梅の花
マッチ棒でつくる三角夜の蝉
河鹿鳴き代はるがはるに夜と昼
密葬のあと座ぶとんと夏の雨
銀木犀野に夕暮れのゆきわたる
曼珠沙華雨の子供を抱き上ぐる
隣国に砲煙あがる大根干し
浦和よりあるいて与野や梅雨鯰

どのページを切り取っても、飄々とした達観の域に達した作家の
顔が浮かびあがり、絶妙な世界を作っていた。

現代俳句文庫ー73『火箱ひろ句集』  2013 年  ふらんす堂

2014年1月4日 土曜日

切ればすぐ流しの上で西瓜食ふ
野遊びの茣蓙にきちんと靴二足
赤まんま茣蓙の四隅に石置きて
落椿踏んで悲鳴のごときもの
水鱧やこんなをとこぢやこころぼそ
満月やベビーベットの中は空
雪解川なかなか海になじまざる

なぜか『船団』の方たちの句は若々しい。それは口語的発想からくるものなのだろうか。

ここはまだこの世ぶらんこ軋むかな

多分、こんな句を見かけなかったら、還暦も過ぎた作家とは思わないだろう。

赤坂恒子句集『トロンブ ・ルイユ』 2013年10月 ふらんす堂

2014年1月4日 土曜日

跋文 坪内稔展

春風に押されてみんな古墳まで
ふららこや物言ふ時は息吸うて
まなうらに降る淡雪の影法師
晩夏光砂におしりの跡ふたつ
末席にゐて入道雲を見てをりぬ
秋色の海よりほろと生まれたの
魚の首ざつくり落とす星月夜
亀鳴くと思へばありし後生かな

一句目の古墳がいい。二句目の自然の中への埋没感。三句めの象徴性。多彩な作家だとおもった。

渡辺松男句集『隕石』  2013年10月  邑書林

2014年1月4日 土曜日

作者は短歌で迢空賞受賞の作家である。
短詩形というのは想念が他人へ形状的に伝えられて完成なのだろう。そのことを、この一集で改めて納得した。
この作家の短歌に(ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある)という中の「青虫にもある」の普遍的な事実によって読み手はさらにこの一首を深く納得することになる。

短歌作家が俳句を作ることに不思議はないが、やはり短歌人ならでは想念がいたるところに顔を出すが、それが映像的になるとき俳句が生まれるのではないかと思う。

牛の尻ぶろぶろとひるがすみかな
苜蓿に眉毛の太き獣医かな
手のとどくはんゐ遥けくかたつむり
松虫草ひとりのあとをひとりゆく
秋冷が汽車のかたちではこばるる
とほりすぐるものこそ秋の糸切歯

そうした中で、最終章近いところにある冬木を詠んだ句群が短歌と俳句とバランスを保った透明な詩心を展開していた。

大勢で死ぬゆめをみる冬木かな
冬木といふまつ赤な芯に出あひけり
遠くから枯木ちかづけば巨人

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