2016年7月 のアーカイブ

毎日新聞 7月27日夕刊

2016年7月31日 日曜日

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毎日新聞夕刊

「ににん」夏号 59号

2016年7月30日 土曜日

『遊牧』2016年8月号 主宰・塩野谷仁
俳誌探訪  筆者・伊藤幸

「ににん」夏号 第59号
代表・岩淵喜代子
編集長・川村研治
発行所・埼玉県朝霞市

表紙絵/尾崎淳子    題字/黒田靖子
表紙裏「奥の細道を読む」第三一回「白河の関」英訳版和 訳英訳いずれも分かり易く解説。木佐梨乃氏執筆

俳句史の地平『二冊の「鹿火屋」―原石鼎の憧憬』
著者岩淵喜代子。俳人原石鼎の作品足跡を辿って綴られた書 籍を熱く四頁に亘って解説。水野真由美氏執筆。

「ににん集」正座 四一人名 各五句より。
正座とはなれず蹲裾のひきがえる   佛川 布村

「さざん集」   四三名 各五句(内半夏生より)。
てのひらの雹は芯まで曇りいる    岩淵喜代子

秀句燦燦「ににん反勿」八 河村研治選評 十一句より。
立冬の鏡の奥の時計鳴る       武井 伸子

秀句燦燦「十七音の字宙⑨ 浜田はるみ選評 十句より。
春の水光の底を流れけり       石丸千恵子

石鼎余滴三「鈴木芳如」      山石淵喜代子氏執筆
原石鼎と鈴木芳如との長年の関わりが綴られた随筆。

「雁の玉章」浜岡紀子、武井伸子、栗原良子、岩崎喜代子の四氏・随筆執筆。全体に若さと向上心が漲り発展を願う。

貼り交ぜる切手とりどり巣立鳥   岩淵喜代子

2016年7月30日 土曜日

『くぢら』2016年8月号 主宰・中尾公彦
現代俳句月評  筆者・工藤進

(『俳壇』六月号(鳥の恋)より)
封筒や葉書に色とりどりに貼られた切手は受け取る方も何故か楽しい。四季折々の季節感も香りもあり、差出人からの温もりや遊び心さえ感じる。たかが切手、されど切手なのである。

詩作とはそんな日常の些細な視点や発見から生まれてくるものかもしれない。封筒に貼られた様々な切手はみな一羽づつ、作者から離れた巣立鳥なのかもしれない。

高枝の暗きところが小鳥の巣   岩淵喜代子

2016年7月30日 土曜日

『麻』2016年7月号 主宰・嶋田麻紀
現代俳句月評 筆者・川島一紀

『俳壇』六月号「鳥の恋」より。
大抵、小鳥は、危険なものが近づかないような、安全な場所である樹木の高枝に巣を作る。地上から、巣の構成物である木の枝、枯草、紙、土などを拾い集めて低い擂鉢状の巣を作る。地上から見て、高枝の巣の造作が、暗く見える。

口大きく開けて日本の燕の子   広渡敬雄

2016年7月23日 土曜日

燕の巣から子燕の思いっ切り大きく開けた口が見える光景は、誰もが一度は目にしている。それをどのようにことばに置き換えるのか、それが個性というものなのだろう。

一句は日本という措辞によって、巣燕の懐かしい風景を完成させている。誰が見ても、思わず子燕の成長を応援したくなるような一瞬なのである。(広渡敬雄句集『間取図』 1016年 角川書店)より。他に(まだ温き鶏を毟るや西日中)(梟や満天の星誘ひ出す)(春眠のかすかな草の匂ひかな)など

八月の何んでもない日に赤飯炊く   忽那みさ子

2016年7月23日 土曜日

確かに赤飯は何か祝い事のときに炊くものである。しかし、何もなくても炊くこともある。ふと、赤飯が食べたくなったり、片付けものをしていたら、もち米が出てきたり、小豆が出てきたりして。

しかし作者は何んでもない日に赤飯を炊いたことに拘っているのかもしれない。否、八月に赤飯を炊くなんて、、、と拘っているのかもしれない。

(忽那みさ子『どんぐり』 2016年 ウエップ)より。他に(どんぐりのあのねあのねとおちてくる)(イマジンの流れる松の手入れかな)(百歳の死や万両の黄色い実)など。

視野に妻在りて夕日のさるすべり  奈良文夫

2016年7月23日 土曜日

愛妻句集というのとも違う。しかし、やはり隋所にある妻を詠んだ句の中に作者が存在する。(妻と来て昔の岩に春惜しむ)(匙持てばむかしの二人掻氷)など。淡々と風景の中に同化させた妻が淡彩画のようだ。

掲出句も、淡々とした描き方ではあるが、夕日の中の妻、夕日の中のさるすべり、そのどちらをも同質の風景のひとつとして置いているのが印象的だ。(奈良文夫第六句集『急磴』  2016年 ウエップ)より。他に(空蝉を胸にすがらせ帰りけり)など。

まひまひの休む一瞬ありにけり   大崎紀夫

2016年7月23日 土曜日

(まひまひ)に出会った作者は、梁塵秘抄の(舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば馬の子や牛の子に蹴ゑさせてむ踏み破らせてむ実に美しく舞うたらば華の園まで遊ばせむ)を思い出したのではないだろうか。

そうして、目の前の動きを見せない蝸牛は、休んでいるのだと叙したのである。いかにも、次の瞬間には舞いだすかのように詠んでいるのが意表をつく。面白い角度で蝸牛を捉えた本歌取りの句である。

(大崎紀夫第八句集『ふな釣り』 2016年  ウエップ)より。他に(泉へといくつかの手が伸びてゆく)(田の鶴のやがてひと足ふた足と)(木蓮の花びら花をはなれけり)など。

日食の近づいてゐる夏座敷    宇野恭子

2016年7月22日 金曜日

日食とは、太陽が月によって覆われる現象である。現代ではその理由もはっきりしているので不思議がることもないのだが、それでもひと時は天体のただならぬ気配に気おされるような気持ちで、元の太陽の大きさになるのを待っている。

座語に置いた夏座敷は、日食の行われている間の時間の推移を捉えるための器である。(「宇野恭子第一句集『樹の花』 2016年 ふらんす堂」より。他に(冬日向おなじところに鶏もゐて)(炉話のときをり風を見てゐたる)(数珠なりに昏れてゆくなり冬の鹿)

筍にざくりと深き鍬の跡   天野美登里

2016年7月22日 金曜日

筍は春の季語のように思いがちであるが、夏なのである。二月から五月ごろまでと、収穫の時期がながいのが春だと思わせてしまうのかもしれない。

地中に潜っている根のあたりを鍬で掘り出すのである。そのときの根の辺りの鍬の跡に焦点を当てて、掘り出したばかりの筍を鮮烈に描いている。

他に(塩味のかくれてゐたる豆御飯)(ホームから線路におりる冬雀)(日溜りに出てくる冬のきりんかな)など、(天野美登里第一句集『ぽっぺん』2016年 ウエップ)より。

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