燕の巣から子燕の思いっ切り大きく開けた口が見える光景は、誰もが一度は目にしている。それをどのようにことばに置き換えるのか、それが個性というものなのだろう。
一句は日本という措辞によって、巣燕の懐かしい風景を完成させている。誰が見ても、思わず子燕の成長を応援したくなるような一瞬なのである。(広渡敬雄句集『間取図』 1016年 角川書店)より。他に(まだ温き鶏を毟るや西日中)(梟や満天の星誘ひ出す)(春眠のかすかな草の匂ひかな)など。
燕の巣から子燕の思いっ切り大きく開けた口が見える光景は、誰もが一度は目にしている。それをどのようにことばに置き換えるのか、それが個性というものなのだろう。
一句は日本という措辞によって、巣燕の懐かしい風景を完成させている。誰が見ても、思わず子燕の成長を応援したくなるような一瞬なのである。(広渡敬雄句集『間取図』 1016年 角川書店)より。他に(まだ温き鶏を毟るや西日中)(梟や満天の星誘ひ出す)(春眠のかすかな草の匂ひかな)など。
確かに赤飯は何か祝い事のときに炊くものである。しかし、何もなくても炊くこともある。ふと、赤飯が食べたくなったり、片付けものをしていたら、もち米が出てきたり、小豆が出てきたりして。
しかし作者は何んでもない日に赤飯を炊いたことに拘っているのかもしれない。否、八月に赤飯を炊くなんて、、、と拘っているのかもしれない。
(忽那みさ子『どんぐり』 2016年 ウエップ)より。他に(どんぐりのあのねあのねとおちてくる)(イマジンの流れる松の手入れかな)(百歳の死や万両の黄色い実)など。
愛妻句集というのとも違う。しかし、やはり隋所にある妻を詠んだ句の中に作者が存在する。(妻と来て昔の岩に春惜しむ)(匙持てばむかしの二人掻氷)など。淡々と風景の中に同化させた妻が淡彩画のようだ。
掲出句も、淡々とした描き方ではあるが、夕日の中の妻、夕日の中のさるすべり、そのどちらをも同質の風景のひとつとして置いているのが印象的だ。(奈良文夫第六句集『急磴』 2016年 ウエップ)より。他に(空蝉を胸にすがらせ帰りけり)など。
(まひまひ)に出会った作者は、梁塵秘抄の(舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば馬の子や牛の子に蹴ゑさせてむ踏み破らせてむ実に美しく舞うたらば華の園まで遊ばせむ)を思い出したのではないだろうか。
そうして、目の前の動きを見せない蝸牛は、休んでいるのだと叙したのである。いかにも、次の瞬間には舞いだすかのように詠んでいるのが意表をつく。面白い角度で蝸牛を捉えた本歌取りの句である。
(大崎紀夫第八句集『ふな釣り』 2016年 ウエップ)より。他に(泉へといくつかの手が伸びてゆく)(田の鶴のやがてひと足ふた足と)(木蓮の花びら花をはなれけり)など。
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