2015年6月 のアーカイブ

お醤油を一滴たらし冬の山   荒井みづえ

2015年6月30日 火曜日

一滴の醤油が山なのか、山が一滴の雫なのかという錯覚を起こさせる虚実皮膜が魅力的である。作者は俳人で画家の糸大八氏の夫人。(箸立に長き黒穂のねこじやらし)(文机に昨日の通草ありにけり)など、画家の視線を感じる。

荒井みづえ句集『絵皿』 2015年  書肆麒麟

 

岩淵喜代子記

虫の音のすみつく枕裏返す   藤野律子

2015年6月30日 火曜日

全体に、シニカルな心情が具象化を促し、情緒的な季語に溺れないで対象を捉えている。たとえば、掲出の(虫の音)がそうである。鳴き尽している虫の音を(枕にすみつく)とすることで表し、その枕を(裏返す)によってふたたび虫の音を際立たせている。他に(はひはひができたるころの敗戦日)(靴下をねぢ込むポケット春渚)(帰省子に持たすタオルの洗ひたて)など。

藤野律子第二句集『風の章』 2015年 ふらんす堂

岩淵喜代子記

西塔に拠れば東塔あたたかし    岩淵喜代子

2015年6月30日 火曜日

『萌』2015年7月号  名句探訪  筆者 岡葉子

薬師寺の西塔東塔であろう。東塔は創建当時より現存するもので一三〇〇年の歴史をもつ。西塔は昭和五六年の再建であり、そのあぎやかな色彩におどろかされる。しかし、この色が奈良の都の本来のありさまであったろう。とはいえ、やはり長い時をへた東塔に愛着をおぼえる。「あたたかし」の季語が多くをかたっている。『俳句四季』4月号「花辛夷」より

天変地異

2015年6月17日 水曜日

「雨ですよ。大粒ですよ」と宅急便屋さんが、荷物を手渡しながら言った。まだ降り始めたばかりのようだったが、それから雨のことを忘れていたのはすぐ止んでしまったからだ。

ところが、我が家から15分くらい車を走らせる戸田辺りは大降りだった様子だ。都内でもかなりの雨量だったことがニュースになっていた。16日には群馬県伊勢崎あたりで、落雷や突風でハウスが100棟以上も崩壊したニュースを聞いた。

このところ、天変地異のニュースが次々入る。今年になってから、御嶽山の噴火、箱根の地獄谷、鹿児島の口永良部島でも噴火。浅間山も噴火の気配を見せている。
外国でもチリ南部のカルブコ火山が爆発したし、ネパールでは地震で世界遺産が崩壊した。なんだか、地球が崩壊しそうな気配だ。

取りあえず今日は、クロネコさんの届けてくれた「ににん」原稿の再校を済ませなければ。

晴天や蝶より重き蝶の影   石淵喜代子

2015年6月15日 月曜日

「ランブル」2015年6月号
◆◆ 現代俳句鑑賞 42 ◆◆
筆者・今野好江

〈蝶〉は〈蛾〉と同じ鱗翅目にはいるが、蛾とちがって昼の間とびあるき夜は休む。
光によつてその物の反対側に出来る部分を影という。
晴天ゆえの影の暗さを〈重い〉としたシュールで感覚的な表現が魅力的である。
同時掲載に

尾がいつかなくなる蝌蚪の騒がしき                  『俳句』四月号 「永き日」より

晴天や蝶より重き蝶の影    岩淵喜代子

2015年6月12日 金曜日

「好日」2015年6月号
現代俳句月評  筆者・越野雄治

よく晴れた春の昼、公園のベンチに座っていると、蝶がひらひらと現れたという景色であろうか。
蝶は冬を除けば一年中見ることの出来る人目につきやすい昆虫だが、この時期、如何にも春の到来を象徴する対象である。そして、もの憂さも春の特徴のひとつ。掲句はそんな雰囲気を伝えている。石畳に映った蝶の影は、まるで作者の心の中の陰翳を表現しているかのようだ。

「俳句」4月号「永き日」より

人はみな闇の底方にお水取り   岩淵喜代子

2015年6月12日 金曜日

「天衣」2015年6月号
現代俳句鑑賞  筆者・吉田正道

東大寺二月堂の修二会。僧侶たちが人々の煩悩による罪を一身に背負い、一日に一汁一菜を命の糧とし、約一ヶ月にわたる懺悔の苦行を断行し、世の中の平和や五穀豊穣を祈願する壮大な行事である。そのクライマックスが「お水取り」(三月十二日の深夜)である。真夜中、松明の先導により僧侶たちの列が二月堂階下の井戸へ降り、ご本尊の十一面観音に供するための香水が汲み取られる。大勢の参詣の人々は闇の中でこの厳粛な儀式をじっと見守っている。

「闇の底方に」との措辞により、闇の底にいるのは人というより、人間の煩悩による罪深き魂が犇めき合っている様を思わせる。「お水取り」が下五に置かれることにより、掬い取られのは犇めいている罪深き魂そのものであるような趣を呈している。
『俳句四季』四月号(花辛夷より)

見えてきし七七年目の椿   岩淵喜代子

2015年6月5日 金曜日

「松の花」2015年6月号  筆者・平田雄公子

「見えてき」たのは、「七七年目」=齢喜寿の目出度い「椿」の花。誰しも椿は幼児から身近に在り、親しい花であろうが、節目にも又格別なのだ。そして紅椿であれば、血脈にも師脈にも通じ尚更であろう。「俳句4月号」発表句より)

探梅のしばらく刃物屋にゐたる   岩淵喜代子

2015年6月5日 金曜日

「麻」2015年5月号より・「俳句月評」 筆者・川島一紀
俳句」四月号「永き日」より                               梅が咲き始めるころ、待ちきれないで早咲きの梅を、あてどもなく山野を探し歩く。寒い中をしばらく歩いていると、刃物屋があった。珍しさもあって、その店へ入った。そこには、刃先が鋭く光る刃物が何本も置かれていた。刃物の青白く冷たい光に一層、寒さが募ってきた。探梅行の寒さと刃物屋の刃物の冷たさが照応。俳句」四月号「永き日」より

「雲」2015年6月号より・「俳句の窓」 筆者・大塚太夫
不思議な句である。改めて「探梅」と「刃物屋」の距離感、質感を考えてみた。そうすると「探梅」の持つ、楽しさの中にある一種の危うさが「刃物屋」にいる時間と極めえて近い、とわかった。なるほどなぁ。

天よりの直ぐなる水を滝といふ   西宮 舞

2015年6月5日 金曜日

滝の真っ直ぐ落ちる様は、これまでにも幾たびとなく詠まれてはいる。だが、自然諷詠の捉え方が知的センスなるな表現力によって選ばれていて新鮮である。それは、以下のような句にもいえる。(身ほとりに風を集めて薄ころも)(ひとひらも蝶とはならず飛花落花)(青簾しばらく風の寄りつかず) 「西宮舞句集『天風』2015年  角川学芸出版」より 岩淵喜代子記

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