ものぐらき
土竜の
顔に
似てゆくか
六月や
樹々のしづくの
ごとき
人影
俳人だから、どうしても季感のある章を選んでいるかもしれない。だが、これらを俳句とか詩とか振り分けなくていいのかもしれない。作自身がそう考えているのではないかと思う。一節ごとの詩情は、か細い文字で落脈があるようなないような、空気で続いて、それでも一集は、かすかな絡脈の匂いで続いている。
『花蔭論』 2015年 桃谷舎
ものぐらき
土竜の
顔に
似てゆくか
六月や
樹々のしづくの
ごとき
人影
俳人だから、どうしても季感のある章を選んでいるかもしれない。だが、これらを俳句とか詩とか振り分けなくていいのかもしれない。作自身がそう考えているのではないかと思う。一節ごとの詩情は、か細い文字で落脈があるようなないような、空気で続いて、それでも一集は、かすかな絡脈の匂いで続いている。
『花蔭論』 2015年 桃谷舎
トマトの重量感、トマトの鮮烈な赤さがこんなところで発揮されるなんて思わなかった。重石にしたのだから一個である。幾つかあったトマトの中から選ばれた一個の存在感が見事だ。(けふも留守番窓から青柿が見ゆる)なども、日常から見えた青柿の存在が、非日常へ繋がっていきそうである。
江渡華子第二句集『笑ふ』 2015年 ふらんす堂
私の中での林桂という作家は多行形式の作家としてまずインプットされている。分かち書きにすること自体に主張がこめられているから、どちらかと言えば前衛的な世界にいる人という感じでいた。曖昧なまま俳句に関わっている私には、強面の作家という印象だった。
ところが、頂いた句集は『ことのはひらひら』と、いう古典的に思える題名で、中身も一行形式の俳句なのでオヤと思った。こうした句と多行形式の句とが同時進行してきたのかもしれない。ふと高柳重心を思い出した。
掲出句は一粒の葡萄から想像する世界を繰り広げている。はちきれそうな葡萄の一房、いや一粒の葡萄の中に瀬音を感じる、という想像力が、ふたたび葡萄のかたちに戻っていく。林桂句集『ことのはひらひら』 2015年 ふらんす堂
一句の世界は(油のごとく)の一語に収斂していく。砥石の上に水を乗せて刃物を研いでいると、砥石と刃物の間の水が砥石から溢れるのだろう。それが、まるで油のようになめらかに、静かに地面を落ちる。作者の凝視がその水に注がれて動かない。
和田順子第五句集 2015年 角川書店
晴れていれば空はいつでも青いだろう。しかし、今日が初御空だと思う心で空を見上げれば、空はただ青いだけではなく滔々と流れているのである。(夕映の刈株に寄るうすぼこり)(種犇めける鶏頭の首ねつこ)など、本質を捉えようとする視線を感じる。
大石香代子第三句集『鳥風』 2015年 ふらんす堂
実のなり初めは樹木の葉の色に紛れていて、見ようとしないものには姿を現さない。
それがひとたび実が成っていることを認識すると、個々の青い実がみんな形を表わしてくる。さらによく見ようと後ろに下がって、一木を視野におさめてみれば隅から隅まで青梅が姿を表わせて思わず(あるわあるわ)と感嘆の声が出てしまったのだろう。
ほかにも、(一軒のための踏切雁わたし)(青竹を伐らずにをりし祭まで)など、日常雑記的な風景を詩情濃く俳句にしている。
能村研三第七句集『催花の雷』 2015年 (株)KADOKAWA
こんなに猛暑続きの夏があっただろうか。
そんな毎日でも、とりあえずは滞りもなく予定はこなして、日々は過ぎていった。会で出会った句友に「それでも、立秋になると、不思議に違う風が吹くんですよね」というと、「そうそう」と大きく頷いた。
案の定、立秋を過ぎると日に日に風の気配が変わっていった。ときには窓を開け放って朝食の卓につくことができるようになった。そのなかでも今日が一番涼しい風の吹く朝となった。この季節の推移を感じるときほど嬉しいことはない。今朝はことに、必ずやってきてくれる親友のような懐かしさを実感している。
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