2016年6月 のアーカイブ

先頭が手を差し入れてゐる泉   岡野泰輔

2016年6月30日 木曜日

タイトルが刺戟的、表紙も刺戟的、そして帯文で坪内稔典氏が――分ろうとしない。前から順に読まない。退屈なとき、とても贅沢な気分のとき、なんだか泣きたいとき、ぱらっと何ページ目かを開く。すると、そこにある言葉が話しかけてくるだろう。---と書くのも刺戟的である。

だか一句ごとを追っていくと、わりあい身近に共感できそうな句が並ぶ。掲出句も泉へ手を差し入れる感触を他者を通して感じているのである。他に(天井のはるかに遠き夏蒲団)(南からをとこ来たれり夜のプール)など。岡野泰輔第一句集『なめらかな世界の肉』2016年 ふらんす堂  岩淵喜代子記

午前中はすっぴんでいる青蜥蜴  平きみえ

2016年6月30日 木曜日

主婦なら誰でも頷いてしまう一句。掲句は、もしや青蜥蜴がすっぴん?、と思い込みしそうなアクションを感じて、午前中の眠気を払拭してくれる若々しい一句。他に「袋から袋取り出し冬の雨」「草青むベンチコートを脱いでゴー」「読み上げ算にがてだってね辛夷咲く」など。船団会員・1941年生れ

平きみえ句集『父の手』 2016年 象の森書房より   岩淵喜代子記

貼り交ぜる切手とりどり巣立鳥   岩淵喜代子

2016年6月29日 水曜日

『春耕』2016年7月号

鑑賞『現代の俳句』  筆者 蟇目良雨
(「俳壇」7月号より) 料金収納のスタンプが押された郵便物は見てもさびしいものである。高が切手であっても、切手の貼られた郵便物は差出人の気持ちが伝わってくるから不思議だ。それも切手を貼り交ぜにすると華やかな気持ちにさせられる。
実際郵便物を出す時の効率を考えれば一枚の切手で済ませればそれに越したことはないのだが、貼り交ぜにするのは、いろいろ相手のことを考えながら切手を楽しんでいるのではないだろうか。差し出す相手は巣立鳥のような若々しい人を思って鑑賞した。

明け易し

2016年6月12日 日曜日

埼玉文学館の傍らにあるカフェでの懇親会が4時半位から始まったから、私が会場を抜け出した時間は6時前だったと思う。綺麗な夕焼だった。午後からの文芸集団の総会、それにつづく野村路子氏の「アウシュビッツを訪ねる旅」のお話。まだまだ、世に知られていないことがあるんだな、という感想を持った。

ただそれだけの一日なのに、帰ったらどっと疲れてしまった。このままベットに潜ったら完全に熟睡してしまいそうだったので、歯磨きと洗顔を済ませて横になった。

案の定、目が覚めたのは3時。それから入浴を済ませたら4時なっていた。東向きの我が家の窓から朝焼けが見えたので何だか夕べの夕焼の続きのような気分になったのだが、間違いなく朝なのだ。改めて「明け易」の季語を実感した。4時半にはもう窓には日が当たっていたので、農家の人たちは、既に一働きした頃なのだろうと思った。

こんな早起きは4月に四国に行くために空港行きのシャトルバスのバス停に行ったとき以来だ。

ににん63号入稿

2016年6月9日 木曜日

毎回のことだが、印刷所に入稿した時の身の軽くなる思いは格別な快感である。
そうして、三か月ごとにしか、メールのやりとりのない三原プリントの新潟さんから「届きました」と返信を貰うと、何だか終わったような気分がする。

それで、散歩がてら孫が好みのアサカベーカーリーのパンを仙台に送った。このパン屋さんはこの土地に住みはじめたときには、既に開業していて、それからずーっと同じ店構えである。「店構え」というと、最近はやりの自分でトレーを持ってパンを選んで買うのを想像するが、このアサカベーカリーは間口も奥行きも小さなパン屋である。

3、4人の客がはいるともう店がいっぱいになって、外で待っているようになる。しかも、中にはいっても神戸屋のような、あるいは石焼釜のあるパン屋のようなお洒落なパンはない。

あるのはあんぱん・クリームパン・チョコレートパンくらいである。あとはサンドイイチとお惣菜パン。だから夕方になると、もうお惣菜パンは二つずつくらいのセットにして安売りしをしている。

ここの人気は食パン、特々上食パンと特上食パン・上食パンというのがあって、高いほどバターが多く入っているようである。最近気がついたのだが、このアサカベーカリーが朝霞以外の地域にもたくさんあるのだ。

ネットでちょっと見ただけでも、埼玉県のいたるとこにあるみたいだが、肝心のアサカベーカリーのホームページがきちんとしていなくて、無欲な感じ。いやそれでも、客が押し寄せるのかもしれない。

我が頭も南瓜も

2016年6月9日 木曜日

明け方に南瓜が床へ転げ落ちたような音で目が覚めた。目覚め際の右目から青い火花が走った。そうしてやっとはっきり目が覚めてみれば、床に落ちた南瓜は私の頭だった。

それから痛いー、という感覚から自ずと床に当たった額に手をやるとなんとなく膨れている。どうしたものかな、と思いながら取りあえず瘤のあたりを冷やしながら、最適な処置をWEBで探したが、特別なことは出ていなかったので、自然治癒するのを待つしかないかなーと思った。

そんな顔を化粧で補いながら、吟行に行き、祝賀会に出席して、埼玉の秩父まで俳句選評のために出掛けた。そうして、カルチャーの俳句教室をこなして、兄弟で法師温泉に行く予定も実行した。さすが、旅先で暖まり過ぎていいものかどうか不安になって、とうとう温泉に浸かりながら髪は洗わなかった。

忙しい予定をこなしてからふと脳外科の前を通ったので、調べて貰うことにした。どうしてそうなったかも、本人も解らないのだからお医者さんも推測するしかない。起きたとたんに脳貧血でも起こしたかなー、などと看護婦さんと話していた。

一応異常は発見できなくて、たん瘤を作った直後でも、1週間経った今でも、顔に流れてきた血液は自然に消えるのを待つしかないという。まだしばらくかかるかなー、といった。

ところが、ところがそれから数日後、たん瘤を作ってから十日くらい経ったころ、まっ黒だった目頭は元の肌の色に戻ってきて、目頭から目尻に移動した血液も薄くなっていた。いちばん気になっていった頬の真中あたりの蒼さも薄れてきた。

血行をよくしたほうがいいだろうと思って通っていたエステ施術の担当者も「まだ14日しか経っていませんよ」、その消え方の速さに驚いていた。よかった。河原に夏草が伸び放題だった。

かなかなのかなかな他を黙らせて  松山足羽

2016年6月3日 金曜日

( かなかな)とはひぐらしの鳴き声で、(ひぐらし)(ひぐらし蟬)とも呼ぶ蟬の一種。夕暮れになると金属音のひぐらしの声が森の中を貫き始めると、あたりはそのかなかなという声の他には聞こえなくなる。(他を黙らせて)はそうしたひぐらしの音に耳を傾けている作者に行き着く。他に(頬杖や生きのびてきし冬日向)(二手二足たがひちがひに秋の道)など。松山足羽第七句集『究むべく』2016年 東京四季出版。

後ずさりして見る実梅あるわあるわ   能村研三    

2016年6月3日 金曜日

実のなり初めは,木の葉の色に紛れていて見ようとしないものには姿を現さない。それがひとたび実が成っていることを認識すると、個々の青い実がみんな形を表わしてくる。さらによく見ようと後ろに下がって、一木を視野におさめてみれば隅から隅まで青梅が青い実を丸々と付けていた。思わず(あるわあるわ)と感嘆の声が出てしまったのだろう。日常雑記的な風景を詩情濃く俳句に置き換えた。(能村研三第七句集『催花の蕾』  2015年  (株)KADOKAWA)

桑の実やむくむく育つ山の雲  黛 執

2016年6月3日 金曜日

むくむくが眼目だろう。雲のむくむくと育っている遠景がいつか眼前の桑の実の形状に繋がって夏のさかりの真昼を描いている。(烏瓜ぶらりと山の晴れわたる)(沖くらし暗しと猛るどんどの火)など、村の風景が随所に詠まれている。この一冊の中に『春の村』が
詰まっているという感じがする。(黛執第七句集『春の村』  2016年  角川書店より)

7月の水のかたまりだろうカバ    坪内稔典

2016年6月3日 金曜日

カバより大きな動物はたくさんいるのだが、なぜか、この世のカバの大きさには無駄を感じるのである。なぜか、象の大きさは納得できるのにカバの大きさに納得できない。

それほど大きく感じるということでもあるのだが、やはり形状のためかもしれない。
水の塊、と言われるとなるほどと頷いてしまう。だぶだぶとしたその体が自在に変化するような気がする。

『坪内稔典100句』 2016年  創風社出版

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