2014年8月 のアーカイブ

逃水の向うに道の続きをり   岩淵喜代子

2014年8月9日 土曜日

評者・今野好江

(『俳句四季』6月号 「遍路」)<蜃気楼>現象のひとつである(逃水)。遠くの道路面に水たまりがあるかのように見え、近づくにつれ遠ざかることから(逃水)という。地面近くの異常高温による光の異常屈折現象である。
現実にはないものを追う虚しさ。追っても追いつけないまぼろしである。

逃水や道の片側田水鳴る   角川源義

今はもう、まぼろしを追うよりも田水の音や、その先に続く道をゆく作者なのであろうか。(ランブル8月号  現代俳句鑑賞)

綿虫のあたりのしんとしてをりぬ   田中久美子 

2014年8月5日 火曜日

 (2014年北溟社編『新現代俳句最前線』より) 綿虫って生きていることを忘れた生物ではないかと思う。あるときふわりと人の目線に捉えられても慌てない。まして、逃げようなどとも思わないらしい。綿虫のふわふわとした漂いに合わせて掌を差し伸べていれば、そこへすんなり降りてきてしまうのだ。

初冬の小春日和と呼ばれる穏やかな日を選んで、どこからともなく湧いてくる姿は、まさに(綿虫のただよふ姿しか知らず  稲畑 汀子)に尽きるのである。

掲出句は、その綿虫の静かさを(あたりがしんとしてをりぬ)の把握によって言い留めている。さりげない措辞だが鋭い凝視である。その提示で、ふたたび静かに漂う綿虫がクローズアップされていく。(岩淵喜代子)

お遍路の踵に蟇のぶつかり来    岩淵喜代子

2014年8月5日 火曜日

 (山繭8月号 現代俳句鑑賞より  筆者・佐々木経子) 遍路は春の季語で、遍路そのものを詠んだ句が多い中この句は意表を突いている。蟇は穴から這い出す頃ではまだ機敏に動けない。お遍路の踵にぶつかり思わず踏まれそうになって驚いていることだろう。季語二つであるが「蟇」に重きを置きたい。お遍路の甲高い声も聞こえてきそうだ。俳諧味、滑稽味のある句で明るい。(「俳句四季」6月号発表句)

青空の果ても青空揚雲雀   岩淵喜代子

2014年8月5日 火曜日

 (春嶺8月号 現代俳句瞥見より 筆者・縣 恒則)  よく晴れ渡った青い空が広がっている。その青い空へ舞い上がると、広がっていた青空の遠くに更に空が青く晴れ、広がっていた。揚げ雲雀の視点で捉えられた限りなく青い、しかも広々とした空だ。繁殖期の雄は空高く舞い上がるが、その雄雲雀になりきった作だ。(「俳句四季」6月号発表句)

カステラと聖書の厚み春深し  岩淵喜代子

2014年8月5日 火曜日

(「俳句四季」3月号一枚の絵)シリーズ掲載の「1枚の絵」。逸水御舟の「伊太利亜オリヴェート所見」の絵に掲句が寄せられている。絵の選択は編集者か作家か定かではないが、「炎舞」などの御舟の代表作でないところに意図が感じられる。画面いっぱいにイタリアの家屋を据え、いく分物憂げな、、いわゆる御舟らしくない絵。作者はあえてその絵に描かれていないカステラと聖書を即物的に据えた句を寄せた。そこに思い入れがあるのだろう。その結果、単なる絵の説明にならず、独立した一句となった。
キリスト教文化を土台にした生活劇と作者独自の色彩までが「一枚の絵」に加わる。深みゆく春を立体的に据えて、イタリアの田舎街の日常を描いた御舟の絵と響き合う。絵と句の距離感が心地よい。(筆者・閲朱門 『門』6月号より)

黒板が遠き渚に見えて夏    岡本紗矢  

2014年8月5日 火曜日

―2014年刊ふらんす堂・句集『向日葵の午後』より―

黒板といえば、黒か濃い緑色のボードが思い出される。何色だったにしても深い色の中にさまざまな想像を託すことが出来る。その黒板にふと渚を感じたのだ。渚ということばが浮かぶときに作者は自ずと詩の入り口に立っているのである。

渚とは川や海や湖の波の打つ寄せているところ。一歩こちらは陸地で一歩向うは海であり川であり湖なのである。生死の境を始めとして、万象の境をも内包していることばとしてその意味は重い。

黒板は丁度作者の視野の遠い距離にあり、その遠さは想念の入り口になる。ふと真向かう黒板の色に海や湖の深さを感じるときに渚が想像されたのだろう。黒板から渚への比喩が水の流れのように夏という季節に行き着いている。(岩淵喜代子)

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