2014年12月 のアーカイブ

抽斗の奥で混み合う枯れ木立   対馬康子

2014年12月27日 土曜日

同じ作者の作品に(暗室に枯木の山の濡れている)という句がある。枯木は作者の心象風景なのかもしれない。暗室の中で濡れている枯木山には、句になる過程が見えそうなのだが、掲出の(抽斗の奥で)は極めてシュールな映像である。それでもなぜか、抽斗の混み合い方や薄暗さの奥に枯木立の映像が立ちあがってくるのである。

枯木立といえば、真冬の寒々しい風景を伴うように見えながら、まんべんなく陽を浴びているそれには、安らぎと憧憬が感じられてくる。たぶんその造形美が、人々の心象風景とそて懐かしさを呼び出すのではないだろうか。対馬氏の取り合わせは、思いがけない遥かなものと繋がって魅力的である。

赤いバス来る北限の栗の花
花マルメロ沼に沈んでゆくは斧
毛糸編む黒き海岸線延べて
天高し野を船底のごとく置き

(『竟鳴』 2014年12月 角川学芸出版)より

(岩淵喜代子)

霜柱踏まば崩るる人柱   武藤雅治

2014年12月18日 木曜日

一見目立たないのだが、ひとたびそれと気が付くと、気になって次々と踏み倒してみたくなるのが霜柱である。毛細管現象で地中から地表へ昇る水蒸気が凍ることで生まれる霜柱は、たかだか五、六センチである。しかし、それが人柱ということばに出会うことで、小さな柱がきわめて鮮明な存在感を放つのである。

歌人である作者は、句集『かみうさぎ』を「気ままに書きとめておいた句を六つの句篇に構成し、本句集とした。と述べている。

いちまいにめくれる春のわだのはら
あらくさのみな倒れふす御国かな
昏れのこる眼に晩夏(おそなつ)の走り水
すこしづつチカラをしぼる捩花
猫となり猫の後ろをついてゆく
行く秋や足が覚えて歩きだす
思ひ出のランチを食べる三姉妹
霜柱踏まば崩るる人柱
掌のなかに螢は罪のにほひせり

三句目までの句には短歌のみやびの匂がある。そうして、四句目から六句目までが、俳人からみた一番俳句らしい捉え方になるのだろう。また冒頭の(霜柱)の句も含んだ七句目から九句目までにある物語性も魅力的だ。要するに17文字形式にたいする枠のすべてを外して、180度の方向性を持った句集と言えるだろう。   武藤雅治句集『かみうさぎ』 2014年12月  六花書林

老いてゆくところどころを青簾     酒井和子

2014年12月13日 土曜日

老いという言葉を詠むのは基本的には避けている。それはそのことばの中には人生のすべてが込められていて、結局は老いを解説する領域を出られないからである。それほど、老いは周知の認識なので、それを越えた世界で詠むのは、ある種の志が必要なのである。

掲出の句は長い人生をたった十七文字で言えたことにまず驚くのである。その長い人生の折々に青簾をオーバーラップさせて、流れ去る時間と静止する時間とが、爽やかに織りなされている。(老年も吊玉葱もにぎやかな)(座り直してあといくたびの雛納)など、句集にはこれまでになく老いを意識した句が散見できる。

しかし、それは諦念というより直視という潔い切り取り方である。他に(昨日より今日直に見て牡丹の芽)(次ぎの世の青空の見え桐の花)などにもこの世とかの世の境を見据えているのが伝わってくる。(第三句集『花樹』 2014年 角川学芸出版)

雪吊りの仕上がらぬまま昼休み   高田正子

2014年12月9日 火曜日

即物的な詠み方の句が多いのは山口青邨から黒田杏子につながる句風が浸透しているようだ。どの句も曖昧さや観念的な句はない。
冒頭の句は昼休みというものに焦点をあてているのだ。雪吊りの作業は朝から始まっていたのであろう。かなり技術と時間を要する作業である。松に立てかけた梯子も、途中になった荒縄もそのままにして、職人たちはひとところに寄り合って昼食をしている。

その食事の場から雪吊りが途中のままの松も見えて、季節に向かう人々の営みが淡々と詠まれていることに好感を抱いた。(剪定の一枝がとんできて弾む)(さみだれの小やみの金の雫かな)(あをぞらの届かぬところ凍りけり)など、端正な一集である。
「高田正子第三句集『青麗』 2014年 角川学芸出版」

 坂口昌弘『文人たちの俳句』 2014年  本阿弥書店

2014年12月8日 月曜日

小説家、画家、詩人、歌舞伎役者、思想家など、専門俳人ではない人たちの、言うならば余技の俳句を紹介鑑賞している。
余技と言いながら、取り上げられた吉屋信子や江國滋のように、知名度を持った句集を出している作家も多数いる。また、夏目漱石や久保田万太郎のように既に歳時記などで馴染みになっている作家が収録されている。
それらの俳句はそこいら辺で俳句に関わっている専門俳人よりも完成された作品群で、取り上げられている安東次男の俳句などは、その冴えたるものである。著者は、それら文人たちのの俳句を読む視点というものを照射している。

白梟頸回さねば白づくめ    猪俣千代子

2014年12月7日 日曜日

対象を見つめるということはこういう事なのだろうと、ほとほと感心してしまった。目前に居るのは白い梟だけ。作者はそれを何かに例えるのでもなく、その背景に視点を移すこともなく、ただただ白い梟を凝視していたのである。
(白い梟は白づくめ)を言うだけで梟の姿は伝わるのであるが、それでは平面的表現のままである。(首を回さねば)この措辞によって、回すと色が現れるかのような仕掛けで、不思議さが生まれ、一句の陰影が生まれた。(冬満月もすこし近く寄れさうな)(末黒野の端つこ踏めば火の匂ふ)(するすると蛇棒立ちになりにけり) 句集『八十八夜 2014年11月 角川学芸出版

紅白に別れて鰯雲を見る   山崎十生

2014年12月6日 土曜日

紅白に別れたのは運動会のような風景なのだろう。どちらにしても、紅白は戦い合う群れ同志なのだ。それが(鰯雲を見る)のことばによって日常が非日常に暗転してしてしまう。この暗転こそが俳である。

そういえば、この一句が収録されているのは『自句自戒』というタイトルの一書である。一瞬よくある自句自解の著書だと思ったが、そうではなかった。百句すべてを神野紗綺氏が鑑賞している。このタイトルの付し方にも、十生氏の言語感覚の秘密を垣間見ることができる。

(山崎十生セレクト100『自句自戒』鑑賞 神野紗綺  2014年  破殻出版)

近々と寄りて確かむ冬桜   加藤照枝

2014年12月6日 土曜日

12月ごろに、それほど目立った気配もなく咲き始めるのが冬桜である。花も春のそれのようなにぎやかさもなく小振りなので、桜のようだが、と近づいてから咲いていることを納得するのである。
一句はまさにその一樹に近付いて桜の花を確認した瞬間を詠んだもの。小さく、淡い花びらが空に翳した枝々に淡々とあるのが見えてくる。
句集『糸ぐるま』  2014年  東京四季出版

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