六月八日は山の上ホテルで「件の会」の水無月賞受賞パーテイ。今年は『ドナルド・キーン著作集第一巻 日本の文学』(新潮社)に与えられた。まだその本は読んでいないが、当日配布された雑誌「件」にキーン氏の受賞のことばが掲載されていた。そのなかに、俳人でないわたしが賞を貰ってもいいものなのかとも思った。もし資格があるとすれば60数年前から「奥の細道」の英訳を四回も発表して来たことでしょうか、とある。今年92歳。
ところで、「ににん」の表二には毎回木佐梨乃さんの「英文で読む奥の細道」が連載されている。しかも、キーン氏の英訳本を使用している。「ににん」は創刊当初から「奥の細道」を翻訳から読み説く連載をしているので10年続いたことになる。初期は相羽宏紀氏だった。相羽氏が病没して中断せざるを得ないと思っていたときに木佐梨乃さんが現れたのだ。10周年祝賀会の折に、執筆者がまだ30代の女性であることに驚いた人もいた。なんだ、「奥の細道」か、と思いながら読み始めた人も瞠目する内容である。「ににん」 46号の文章は尾花沢。以下に転載しておく。
Making the coolness / My abode, here I lie / Completely at ease.
涼しさを我が宿にしてねまる也
「ねまる」と云うと、何も考えずに解釈するなら「寝る」というような意味で、「旧暦7月の暑い中、涼しい住居で、とてもリラックスして眠ってたんだろうなあ」と思ってしまうが、どうやらこの「ねまる」とは、岩手や秋田などの方言で「座って休む」という意味らしい。「粘る」や「眠る」から転訛した言葉だろう。場所によっては「みんなでくつろぎながら、わいわいと食べたり飲んだり談笑する」というニュアンスもあるらしい。いずれにせよ、震災以来、東北のことがクローズアップされる機会が多くなり、そういうこともなければ、わたしも「ねまる」の持つニュアンスを知らないでいただろう。
さて、キーンの英訳だが、「here I lie」とある。「わたしは横たわる」である。つまり、寝そべっている情景で訳したのか……。と思ったら、その直後に「at ease」とあるではないか。危うく、「キーンも東北の方言を知らずに、寝ているという翻訳にしたのか」と思ってしまうところだったが、これなら「楽にくつろいでいる」という意味となる。この句、原文も英訳版も、なんと油断できないものであろうか。しかし……なんともうまい訳かもしれない。「くつろいでいる」という意味なら、他にも「I am relaxed」という表現だって使えたはずだ。だが「lie at ease」という、そのままなら「横たわる」という意味となる語句を盛り込むが、ニュアンスは「楽にする」となる、という憎い演出。あるいは、どっちに転んでもいいように訳したのであろうか。英語でのリズムも、なんとなく五七五っぽく三段に分ける効果も、こちらの表現なら可能だったろう。
正直、この尾花沢の章にはあまり興味がなかった。旅の情けを知ってる長者さんがもてなしてくれて、その御礼に賛辞をこめた挨拶句を残した、という以上の主旨はないと考えていたからだ。だがキーンの英訳版と照らし合わせることで、なにやら俄然おもしろ味を帯びて来た。「ねまる」の方言的意味を知らないままだったら、「この章、あまり言及したい要素もないし、どうしようか……」と迷ったままだったかもしれない。
ところで、このコラムの主旨からはちと外れる話題ではあるが、この章には儒教の影響も見て取れる、と思う。村田清風は、紅花の流通や金貸し等を生業としている人で、儒教的にはそういう人種は卑しいことになる。実際には生産する人の他に、こういった流通や金融をまかなう人もいなければ、生産も無駄になり経済は活性化しない。社会においては実に重要な「血流的ポジション」を担当しているので、「(商売で)富めるもの」=「いやしい」は儒教的偏見だと考えている。同じく金持ちに世話になった石巻と、この尾花沢の扱いの落差は、少し興味深い。石巻は、あまりに都会で、詩情にふさわしくなかったのかもしれない。