2010年9月 のアーカイブ

ににん発送終了

2010年9月29日 水曜日

猛暑が一気に晩秋になった。今朝届いた「ににん」の袋詰めを一日で完了。夕方にはメール便を取りに来て貰った。早ければ明日届くところもあるだろう。いつもいつも、私の数えた冊数とクロネコさんの数える数が合わない。クロネコさんはシールの始めと終わりの数字を機械に入れるのだから、結局私の数え方が間違っているということになる。

それなら数えないで渡したほうが煩わしくないような気もするのだが、今度こそ合うかなと思いながら、慎重に数えたつもりなのだが、ついぞ一回もぴったりあったことがない。どういうことになっているのやら。だが、主張するほど自信がない。

何時だったか、集金係が膝の上に千円札があふれていたので、「手伝いましょう」と十枚づつに纏めてあげたら、みんな11枚あったらしい。あまりにみんな11枚あるものだから、会計係が「楽しくなっちゃうわ」というのだった。その後もお祝い袋にみんな同じ枚数を入れたつもりだが、公金だから他の人に確認して貰ったら、中の一つの袋だけ余分に入っていた。うーん、数えるのは「よきに計らえ」と任せるに限る。

青山結第一句集『桐の花』・ 2010年9月本阿弥書店刊

2010年9月25日 土曜日

  行列の先を見に行く文化の日
  フルートの緑蔭深きところより
  もう少し生きてください寒椿
  夏炉焚く小さな駅に着きにけり
  おーい雲乗ればゆうらりハンモック
  十六夜のどこへも行けぬ姉を訪ひ
  船長のまつ赤なネクタイ南風吹く
  花柊兄復縁をしたりけり
  梅東風や税務署までの二キロ半
  石庭の鶏頭二本高からず
  あやとりの上手な婿と酒を酌む
  冬銀河圧力鍋の噴きにけり

作者の俳句は生活詠、家族詠が多い。そういう場合の大方が「自分史」的な色合いを濃くすることで「おもくれ」に傾くことが多い。しかし、青山さんはその家族を詠むとき、日常身辺を詠むときの距離間がいつも虚実皮膜の詩の空間へ着地する。

深刻な場面であるにもかかわらず、鮮明な輪郭でさらりと言ってのけることで、暗さを吹き消して俳味をなしている。「あやとり」の句などはまさにその最骨頂といえる。

ににん40号

2010年9月24日 金曜日

「ににん」は再校も済んで、発送の用意も済んで、あとは印刷の出来上がりを待つばかり。できたら10月2日からの出羽三山の旅行前に発送が間に合うと、すっきりするのだが。印刷屋さんに言うべきだったかなー。

次号は記念号。ページ数も多くなるので少し早目から編集に入る。中身もいつもの延長ではないので、外部に応援を依頼することも手配した。10年の「ににん」の歴史もこの号で記録しておくことにして、一区切りである。

来年一月の記念号が出来たら、内輪で祝賀会もしようと思う。さてどこがいいのかと見渡してみたら、自由学園明日館も懐石料理から、立食まで会館のなかで企画出来るらしい。それなりの小さな会も出来るらしいので、ホテルなどのレストランよりは、落ち着くのではないかと思う。

文化財の建物の中でのお祝い会もいいが、多分一日には一組しかないだろう。見学もまばらな建物の中なら貸切状態である。立ち寄って聞いてみよう。

句集4冊

2010年9月23日 木曜日

 田中水桜第七句集『九十九里』  2010年9月 梅里書店刊

  美登利らは影ふみあそび柳垂る
  白南風や出世階段空に消ゆ
  白無垢の神の座に入り黒揚羽
  海坂の天に貼り付く松の花
  石鹸玉追つてゆきしがほらけたる

大正十年生まれ。「さいかち」の前主宰の自在な時空を得た作品の集積。
     ~~~・~~・~~~~・~~・~~~
桜井ゆか第二句集 2010年9月 ふらんす堂刊

  空っぽの檻の残雪明りかな
  草毟りこの世の端にいるような
  風鈴を吊るせば風のあらわるる
  紫陽花を剪りし鋏の横たわり
  帰省子の畳の上の手足かな

奥行きのある風景を自在な軽やかさで楽しませる句集。
     ~~~・~~・~~~~・~~・~~~
山口素基第二句集  2010年9月 文学の森刊

  冬に入る十和田湖に手を触れてみる
  どんぐりのころがつてゐる岩疊
  見てゐても見てゐなくても桜散る
  犬が寝しここが一番涼しきと
  さつきから誰もしやべらぬ大夕焼け

「造化にしたがう」という軸足を保つ姿勢の感じられる一集。
       ~~~・~~・~~~~・~~・~~~
奈良文夫第五句集 2010年7月 本阿弥書店刊

  百人のひとりを見詰め運動会
  その先に海が光りぬ冬木立
  洗顔の鏡中三月十日の旭
  飛ばされし冬帽追へば津軽の野
  二つ置く仏頂面の日向ぼこ

堅固に俳句の形を踏襲しながらの人生詠
   ~~~・~~・~~~~・~~・~~~

碧悟桐についての座談会終了

2010年9月14日 火曜日

一年がかりで碧悟桐を読んで、座談会を開く予定を立てていた。今回は正津さんを囲む小説を読む会のメンバー。この会はもう10年続いている。毎月二回の会を持ち、つぎつぎ小説を読んでいくのは凄いことだ。資料を集めてくる人、会の終わりの纏めをする人たちなど、おのずと役割も出来ていて最後は居酒屋で終電に近い帰宅となる。

そんなわけで初めから3時間飲み放題の居酒屋での座談会となった。碧悟桐には山頭火や放哉のような悲壮感、孤独感がない。それは各地を歩くことが放浪ではなく旅であり仕事も兼ねていたこともあるだろう。しかし、だらだらと読みづらい。読むという意識をもって入っていかないと取り組めない。

このへんも、虚子と碧悟桐の違い、韻文と散文の違いである。韻文という形式はたぶんその韻律が心に浸透しやすい形式なのだ。日ごろ詩を書いている人にとっては一行で完結する詩形として魅力を発揮するのだろう。形式にとらわれるないでいいのだとする意見も出る。しかし、俳句という軸足があってこそ形式論が出るのであって、この俳句形式を無視する日は来ないだろう。

座談会でのテーマはいくつも出た。子規が生きていたら碧悟桐と虚子はどんな関係になっていたか。その作品もどんな方向へ進むことになったか。碧悟桐は自身の作品の変化をどう受け止めていたのかなどなど。なかなか内容の濃いものになったと思う。

秋風

2010年9月10日 金曜日

夏以来はじめてエアコンから解放される一日だった。、毎日毎日、我が家は朝になると東窓の雨戸を半分だけ閉める作業から始まるのだった。なぜかと言えば日が射しすぎてエアコンの効率が悪いからだ。

それなら夜のうちに閉めておけばいいようだが、夜なかにうっかり窓をあけると、その隙を乗じて虫が入ってくる恐れがあるのだ。そうして昼近くに半分閉めてある雨戸を全開する。

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そうして唯一真夏の昼の外出が朝霞市の図書館。家にいることもおおいし、そのためにパソコンに向かうことも多くて、必然的によく図書館に通った。このごろの図書館の優れているのは、居ながらにして全国の公立図書館の検索ができることだ。そうして、その図書を取り寄せてもらえることだ。

図書館へゆく楽しみの一つは、このあたりの道の縦横の欅並木道。一年中違う表情を見せる。これから黄落の季節が始まる。

再出発します

2010年9月9日 木曜日

これまでの喜代子の折々はホームページにリンクしたブログでしたが、また同じ形式で再出発します。このブログも、「ににん」の延長のようなもので、「ににん」紙上に掲載できない受贈句集の紹介や他紙で取り上げられていた記事の転載などは、すべてこのブログ上で、補ってきました。

これからもこの形式を続けていこうと思います。

加藤耕子第六句集『翁忌』(株)ウエップ

2010年9月8日 水曜日

俳誌『耕」代表であるとともに、英文誌の『耕」も発行して国際的な活躍をしている俳人だが、俳句は伝統を踏まえた骨格を感じる一集である。

  潮の香のかすかに流れ青芒
  野やひろしところどころに春の丘
  音立てて馬穴の底を蟹歩む
  かげろふや戦を知らぬ人の群
  どの枝も葉と葉を重ね柿青し
  灯の山の煙の中まで黄落期

読み終わって、ゆるやかな自然への接し方が伝わってきた。

くぼえみ句集『猫じゃらし』蒼風社出版 2010年8月刊

2010年9月7日 火曜日

1947年生れの「船団」所属・年齢を知らなければ、もっと若い作家かと思うほど自由な発想がある。これは、所属の「船団」の気風というか共通した特徴である。

  ふるさとは田の字の間取り青田風
  足踏みの蛇の目のミシンと金木犀
  七人で金庫を運ぶ春一番
  転がった五人が起きる春の土
  通という叔母がいて白寿猫柳
  九十の坂越えるなら紋白蝶
  青梅やビルに定礎の年月日
  初夏の水買っているインド人
  藻の花や知人の知人又知人
  日本をくすぐっている猫じゃらし

和田順子句集・ 『黄雀風』 角川書店 2010年8月刊

2010年9月7日 火曜日

結社「絵硝子」主宰の五年間の作品集。確実な歩みと思える一集である。

  だんだんに声の揃ひて十日夜
  花冷えの万年筆となりにけり
  木に掛けておくもの空の虫籠は
  理由もなくかたまり歩く子等に夏
  地下濠の涼しさだんだん恐ろしき
  考えてをれば無花果熟れてきし
  マフラーの先余るとも足らぬとも

人は柔軟と言う言葉を使うかもしれない。しかしそれとも少し違うやわらかな感性が、ゆるやかな時間空間を作っている。

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