いま目の前に群がっているのは、さっき出合った植物と全く同じ葉、同じ花なのにすべてがミニチュア化されていた。土壌の条件次第で大きくも小さくもなるのだろう。なんていう草だったかなーと思ったが、名前が出てこなかった。こんなことはこのごろ珍しくない。
地上に張りつくように群がっているその草へ、赤子を覗き込むように屈みこんだ。踏み固められた道の隙間に群がる草はちいさいながらも、三辨の葉を浮かせて、黄色い花も付けて、すべてが完結していた。それがいかにも健気さを感じさせた。
群がっているとは言っても、ごくごく小さな植物の群生は気に留めるほどの存在感もない。苔だってこのくらいの群がり方をするだろう。青黒くかたまりあった島状の形が、いつだったか目にした河辺の風景を思い出させた。
以前、そのことだけをこのブログに書いたことがあるが、川面の直径五、六十センチの黒っぽいかたまりが気になった。かたまりそのものは一か所に動かないでいたが、その表面は絶えずもやもやと蠢いていた。藻が寄り集まって川の流れに揺れているというよりは、もっと意識的な動きに思えたので、つと足元の小石を、そのかたまり目がけて投げてみた。
青黒いかたまりは、形のまま少し移動して何事もなかったごとく、移動した位置で揺れていた。移動の瞬間、数匹の小魚がそのかたまりに急いで紛れ込むのを目にした。やはり魚の群だったのだ。きっと、群れの動きに遅れをとった数匹の魚は、今頃仲間に叱られているのではないかと想うと、なんだか可笑しかった。
その魚の群が、最近観た映画『パプーシャの黒い瞳』と重なった。ポーランドを旅するジプシー一族の話だ。あの映画は理解できなかった。理解できないという前に、ジプシーの生活が理不尽な環境に思えた。それなのに、映画の中のジプシーたちは定住を拒み社会との同化を拒んでいた。重なり合っている魚群は、さながら黒目川のジプシーみたいだ。多分あの形態を維持することが大きい魚や鳥から身を守ることなのだろう。
改めて、名前の思い出せない植物に意識を戻してみたが、思い出そうとすればするほど、いつも簡単に出てきていた草の名前が、頑なに呼ばれることを拒んでいるみたいに、遠くなってしまう。
このまま一つずつ言葉を失くしてしまうような気もした。そのためになおさら思い出すことに執着してしまうのである。別に、その名前を知らなくても一向に支障はないのである。もともと、ふと足元にあった雑草に意識を寄せただけのことなのだから。
名前の思い出せない植物によく似ているのがクロバーだが、クローバーほどには逞しくない。白詰草とも呼ばれるクローバーの、三枚の葉が一枚多ければ四葉のクローバーとして珍重がられる。その花は子供が摘んで首飾りにしたりする。
野の草花でも、花壇の花と同格になるような薊や野菊なら知名度を持っている。だが、この小さな雑草の名を見知っている人は案外少ないかもしれない。だからといって、決して珍しい草ではない。石段の端の凡そ草など生えそうにもない場所にも噴きだすように生えていたりしている。
現に今歩いてゆく土手の足元にも次々現れる。大方の植物は季節の移り変わりとともに、茎を延ばしたり花を掲げたりしたりして、それなりに人の注目を集める。だが、名前を思い出さないその植物は、花が咲いても咲かなくても一年中同じ表情をしているように思える地味な植物だ。そんな草にも名前があったのだと思うほどだ。
しかし、その地味な植物の花の名前を、あえて結社誌に付けた俳人がいる。きっと、野の目立たない小さな花のようにこつこつ地道な活動をしていこうよ、という願いを込めたのかもしれない。そのとき、突然「かたばみ」という言葉が蘇った。そうだ、その植物は「かたばみ」と呼ぶのだった。俳句誌の名前も「かたばみ」と言うひらがな表記だった。