2013年6月 のアーカイブ

今年の螢

2013年6月29日 土曜日

27日、公園に問い合わせると、ピークは過ぎたがまだ出ています、ということだったの発送途中の「ににん」をそのままにして出かけてみた。いままであちらこちらに螢を見に行ったが神奈川県立の「四季の森」公園ほど広範囲に、それも自然に身近に螢が飛ぶ場所はない。大雨のあとの好天気だから、螢が見られる気象条件には適った日でもあった。

昨年は吟行のあと食事をしながら螢を待つはずだったが、体調が思わしくなくって螢の出るまで待てなくてひとり先に帰ってしまった。その前の年は一緒に見に来た仲間が感激して、地方でならもっといいだろうと思ったのか、山形県の螢ツアーを探してきた。螢のでる場所を電車の中から見物するものだったが、思ったほどに蛍はいなかった。天候を見計らって訪れれば、かならず見られるのがこの「四季の森」公園だ。

七時半ごろになると子供連れの家族が集まりはじめた。公園入り口から約一キロのあたりまで葦原を片側にしながら進むと森の中に入る。そのあたりの水の上がいちばんの螢の見場所になるのだが、帰りは葦原を右に見ながら公園出口に向かうと、途中の木立の中にも螢がずっと現れた。なんだか久しぶりの光景に出会ったような気がした。

お陰で少し発送に手間取ったが、今日ようやくメール便を手渡した。

「ににん」発送準備

2013年6月25日 火曜日

発送準備をしなければいけない、と先日のブログに書いたが、その行動が見透かされているかのように「今日ににん」を発送しました、という印刷所からのメールが入った。明日の夕方までには我が家に届くはずである。こうして毎回滞りなく雑誌が発行できるのも、どこかでこつこつと仕事をしている人がいるからなのだ。ありがたいことである。あとは私が袋詰めをすればいいだけのことである。宛名ラベルもメール便のバーコードも貼り終えた。

今回、印刷屋さんが言うには、いままで印画紙出力していた部分の工程がなくなるというお知らせを受けた。印刷機が変わるらしい。有難いことに、そのメリットは印画紙出力しない分、経費が安くなるということだそうである。でも、それも律儀な会社である。私のような素人には、その工程の変化など言われなければわからない。今回は目次の一部分を前回のまま送ってしまって、あちらが気がついて全部訂正してくれていた。

発送がすんだら、今度こそ二つ控えている石鼎についての講演のレジュメを作らなければ間に合わない。二つと言ってもかなり被る部分があるとは思うが、先日の出雲の旅でお目にかかった寺本さんの資料は役立ちそうである。さらに言えば、あまりこれまで知られていなかった話題も語れそうである。「ホトトギス」で第二期雑詠欄が設けられたのは、虚子が碧梧桐に対抗したからなのは周知のことである。

石鼎の「ホトトギス」初投句が第二席になったうえに、翌月号で石鼎の句に長文の鑑賞文を書いたことも、碧梧桐への対抗の気持ちが強く働いたのだということが確信を持てるようになった。

円覚寺吟行

2013年6月20日 木曜日

句会の他に定例の吟行もいくつか参加している。基本的には私の俳句工房だからいちばん大切な場である。今日はその中の仲間の数でいえば一番多いメンバーがいる会の吟行日。その仲間との年月ももう6、7年、いやもっと経っただろうか。人数が多くても、みんながいつも出席ではないので、平均すれ10人くらいだろうか。しかし、今日は集まったメンバーは5人だった。結社の主宰やら、編集やらに関わっている人もいたりして、みんな忙しい人たちだから、こんなこともあるのだ。実際わたしも4月も5月も欠席だった。吟行のいいところは何人でも可能なことだ。何人でも結局は個々の人が自分のために集まっているのだし、人数が少ないと俳句を作るのに支障をきたすなどということもないからだ。交替制の幹事が吟行場所と句会場を確保していればいいのである。長く解体しないで続く理由もこのラフなスタイルにあるだろう。

北鎌倉の円覚寺は久しぶりだった。雨催いだったが、それが涼しさを呼び、どこを歩いてもしっとりとした気持ちのいい空気があった。漱石の「門」は円覚寺の山門らしいが、そこに結界の暗さを感じているのがいかにも漱石らしい。鐘楼のあるお茶屋さんの真正面から富士山が見えることを今日初めて知った。影絵ののような輪郭がしっかり見えていた。境内の中の戻り道で名前を呼ばれて気がつくとやはり仲間で吟行にきている数人の人に出会った。みんなこの紫陽花の時期には同じところを目指すのだろうか。紫陽花寺には寄らなかったが、このごろの明月院の混み様、というより鎌倉全体の賑わいは、いつもお祭りみたいである。

「ににん」51号の再校も印刷所に入ったので、明日から発送の準備に入らなければ。

村上春樹

2013年6月12日 水曜日

多分、読んだのは『ノルエイの森』だろうか。はじめて読んだ小説と相性が悪かった。それ以来村上春樹の作品は私には縁のないものと思い込んでしまっていた。

書店に行くたびに、村上春樹の小説は店頭に、それも目立つ所に置かれていて嫌でも目に入った。10年近く前だっただろうか。上海の大型書店に入ったときに、あるコーナーが上から下まですべて村上春樹の作品で埋まっていたのには、改めてその作家の世界的な人気度を認識した。

ここにきてふたたびその作家の書き下ろし小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」発売され、そのときは開店前の書店に長蛇の列ができているのがテレビで放映された。発売7日目で累計100万部に達したと発表されている。凄いのひとことである。

だからというわけではなかったが、ある日バスが来るまでの時間つぶしに書店に入ったら、真正面に村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が山積みにされていた。品切れなどという風聞もあったので、そこにたっぷり村上春樹の作品があるのがむしろ意外だった。思わず何十年も素通りしていた村上春樹の本を手にとってしまった。

一か月とは経たなかったと思うのだがすでに七刷りくらいになっていた。大昔、谷崎純一郎の『痴人の愛』だったかが、やはり発売されてそれほど日が経っていなかったにも関わらず、かなり版を重ねていたのを思い出した。

で、その『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』はどうだったかと言えば一気に読んでしまった。読んだ後で「狡いー」と思った。なにせ、この小説はスリラー小説の手法をとっている。先へ先へと追いたくなる手法である。もしかしたら、村上春樹は売れて当たり前というスタンスに呪縛されていないだろうか。

まー、その問題点は脇に置いて、この作家の作品がこんなに癒し系であったのだろうか、と思った。誰でもがもつ負の内面、そこに共鳴して安心させるのである。そして、小説のなかの田崎つくるは現代青年のモデル的な位置にあると思った。言い換えればショウウインドーの中の人生で、憧憬を持ちながらショウウインドウに額を寄せて眺めているのが読者層ではないだろうか。

そのあと初期の『風の歌を聴け』を読んだ。文庫本の裏表紙にはーー(僕)の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさって。青春の一片を乾いたタッチでーーとある。今回の「田崎つくる」の老成した人物の原初があるような気がした。

梅雨入り

2013年6月11日 火曜日

今頃になって旅の疲れが押し寄せてきたみたいで、ごろごろしていた。お陰で積んであった本の嵩が少しだけ低くなった。それでも体を動かさないと、と思い何時もの散歩コースを辿った。久しぶりだったが、土手の様相が一変していた。まるで枯葉剤でも撒いたみたいに麦科の植物はみんな枯れていた。これも雨が降らなかったせいなのだろうか。まさか枯葉剤なんて撒かないだろうと思っているのだが。
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これでは( 夏草や兵どもが夢の跡)とはとても詠めない。芭蕉がこの句を詠んだのは新暦でいえば今頃の筈。幸いなことに夕方になってやっと雨らしい雨が降り始めた。明日はもっと降ってくれるらしい。

螢袋

2013年6月8日 土曜日

IMG_00016月になると誰かしら思い出してくれるのがこの句である。嬉しいことである。今月1日の毎日新聞に取り上げてくれたのは坪内稔典さん。この日は出雲にいたが、ホテルに置いてあるのは毎日新聞だったので、手に取っていればすぐに見つけたと思うが、あいにくその日は新聞を読まず終いだった。

読んだのは翌日2日の新聞だった。その新聞には、草田男のホタルブクロの句が鑑賞されていた。よもや前日が私の句だとも知らずに帰ってきのだが、詩人の國井克彦さんから記事の切り抜きが送られてきていた。「ににん」のデーターを印刷屋さんに送ったので、ようやく、そのことを思い出した。写真の花は出雲の旅で撮ったもの。出雲はやはり白い螢袋が似合う。
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ににん51号の校了

2013年6月7日 金曜日

「ににん」の句会は毎月第一月曜日と第二月曜日。今月は3日が初校の日だったが、前日まで出雲にいたので、まったく準備ができていなかった。それでも何とか初校の段階を終わって、その資料をもとにデーターの修正をして昨日やっと三原プリントへ発送した。一段落である。

落ち着いてみると、私にとって出雲は何度行ってももうこれでいいということがないようだ。今回廻ったのは石鼎所縁の地と神話の出雲だった。以前にほとんど回っているところだったが、帰ってきて「『石鼎窟夜話』を読んでいると、これで終わりにはならないなーと思うのだった。石鼎の視線で出雲を歩こうかと思う。

万九千神社に寄ってきたが、そのあたりに万九千山という山があるのを、『石鼎窟夜話』の文章で知った。「母のふところ」の章である。

 私たちの郷土の南方に万九千山という山がある。昼見るとそのてつぺん近くに赤い禿があって、その禿の直ぐ上にこんもりと林が見える、それは松林でもあろう。小学校の時に遠足で一度登ったことがあるが、子供の足で朝早くから出て夕方晩く帰って来られる程の道程である。そこに神社でもあるのか、郷人は万九千様ともよぶ。
 母が里帰りをする時には、この山をいち先きに越えるのであるが、道の順序からいって夜明の未だ全く暗いうちに出発をするので、その時点して出た提灯がその山を越えてしまうまでこちらから見えたのだそうである。
 その灯の見える頃、父は妙伝寺馬場の松並木の間へ出て、その一点の灯が麓へ現れて、山頂の森を越えるまで、こちらからじっと見ていたのだそうである。
ちんがりほんがりと見える提灯の灯が、頂を越えて全く見えなくなってしまうと、父は始めて我が家の方へ歩を移し「ああ無事に万九千さんを越えました」と見
送りに来ていた近所の誰れ彼れや、案じ待っている祖父祖母をはじめ、居残る子供等に、「もう一度休みましょうぜ」と告げながら、再び寝床へ寝ころんで、みんなと夜明を待ったそうである。

出雲の旅

2013年6月3日 月曜日

130602_0911~03二泊三日の出雲の旅は石鼎所縁の地と神話巡り。詳細はいずれ「原石鼎ブログ」に書くことにするが、なんだか随分泊っていたような気がするのは、かなり自在にあちらこちらを走りまわったせいだろう。最後の日に立久恵峡を案内して貰った。そこに石鼎の句碑があることを知ったからである。

吊橋の向うに頂上まで切り立った巖が聳える景色を見て「峡」と呼ばれる土地であるのを納得した。ドライバーさんがよくこんなところに石鼎句碑があるのを見つけてくれたものである。平成14年の建立されたもので、『青々とつづく山あり鮎の里  石鼎(昭和4年)』で、市制60周年の記念事業だった。それだけのつもりが、句碑の前からの上り坂の先にお堂があるようなので登っていくと、7,8人の人が草刈りをしていた。いつもは無人で閉じられているというお堂も三方の揚簾戸が開いていた。

その人達がいなかったら、猪でも出て来そうな秘境であった。堂までの登り坂に大きな葉を広げた下に真っ白な花をつけていた。誰かが武蔵鐙と言ったが、そうではないらしい。また来られるときがあるのだろうか。

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