2011年3月 のアーカイブ

東北関東大震災18・俳句だって

2011年3月31日 木曜日

昨日は詩人は変わるだろうという発言から、次に短歌がかわるが、俳句は変わらないのではないかという意見で終わってしまったが、果してどうなのだろう。俳句が変わらない、という答えの中には俳句が自然を詠む形式で時事が詠みにくい、という観念があるからだ。

もうひとつ短歌も変わるだろうという意見についてだが、それは短歌が俳句の倍以上の言葉を使うために、情景をより細密に言葉に出来る形式だからである。だが、果して地震という言葉を入れれば地震を詠んだことになるのだろうか。人生の上澄みを掬うように詠むことに陥り易い俳句はもどかしい文芸である。もしかしたら、人生を掬い取れない、あるいは人生が詠みにくい形式だと錯覚してしまうのは、季語の呪縛にあるかもしれない。

我を遂に癩の踊の輪に投ず        平畑静塔
万両や癒えむためより生きむため     石田波郷
綿虫やそこは屍の出でゆく門       石田波郷
今生は病む生なりき烏頭         石田波郷
蟻地獄群るる病者の床下に        石田波郷
紅梅や病臥に果つる二十代        古賀まり子
炎天の坂や怒を力とし          西東三鬼
強奪という愛のあり蘆の角        高野ムツオ
恩愛やことに生姜の薄くれなゐ      栗栖浩誉
傾城は後の世かけて花見かな       与謝蕪村
愛を誓ひ案山子のまへに来て別る     原裕
子規は眼を失はざりき火取虫       浅香甲陽
原爆図中口あくわれも口あく寒      加藤楸邨
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ   金子兜太
持ち古りし被爆者手帳原爆忌       竹下陶子
拭いてすぐ曇る眼鏡や原爆忌       伊藤仙女
一房のぶだう浸せり原爆忌        原裕
被爆地に夾竹桃の花咲けり        中野美智子
被爆国に大統領よ座りなさい       谷山花猿

俳句は結果を詠むことに適した形式なのが解る。

東北関東大震災17・ニュース

2011年3月29日 火曜日

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地震で中止になった夜の教室の振り替え授業が行われた。午後から家を出て出雲への特急寝台車の切符を買い求め、そのあと国会図書館へ向かった。図書館の回りをとりまく桜はもうすぐ開きそうだ。出掛ける前に「かのん通信」の編集の方から、「吟行日和」の取材の相談があり、今回は桜の風景を撮ることになっている。この蕾の具合だと出雲へ行く前がいいのかもしれない。

図書館では、読みたい本は全部閲覧出来なかった。地震で書架が崩れて整理をしている最中だとのこと。その上に節電で四時には閲覧予約を締め切るという。おかげで一時間ほど早めに荻窪に到着してしまった。ニュースは震災後被害地の様子を懸命に放映していたが、このごろは被爆問題、放射線汚染に関するものが圧倒的。その道の専門家がさまざまな質問に応えているが、一様に安心していていい、心配する数値ではないという答えで終始している。まるで相談し合っているみたに。

 仮に、これが本当に心配する問題だったとして果して日本はどう対処するのだろう。日本を留守にして、どこかの国に避難するしかないわけである。そうしたら、日本を再建するのに長い年月が必要になるだろう。小さな日本で原子炉を使うということは、そういう問題を想定してから使わなくていけない。

今日の振り替えのカルチャー教室の途中で、またゆらゆら揺れて、どこかの教室から騒ぐ声がした。しかし、わが俳句教室は、みんな静かに天井を見上げて様子を伺う。「とりあえずドアーは開けておきましょうか」という行動をしただけである。このあたりが、俳句をしている人たちの諦観に繋がるのだろうか。

いつも下の階のレストランで少し寛いでから帰るのだが、電力事情で早めに終わる。それで外の飲み屋さんに連れ立った。地震も怖いが被爆はもっと不気味である。恐怖心はそれぞれかなりストレスとして抱えている。この地震以後、詩人たちの詩は変わるだろうという発言があった。俳句は果して変わるだろうか、という問いに、短歌は変わるが、俳句はあまり変わらないのでないか、という答えがでた。

春の地震16・吟行

2011年3月29日 火曜日

11日の地震以後、予定通りに実行された初めての吟行。幹事は実行していいのかどうか迷っていたようだが、いつまで待ったら安全なのかと言えば、誰にも答えは出せない。答えられないのは、放射能問題もそうである。

16日間冷蔵庫に入れておけば、放射性物質、ヨウ素の放射線量が4分の1になるという。野菜はよく水洗いして茹でると放射性物質が防げるとか、ほんとうかどうかは誰にもわからないのでないだろうか。とりあえずは、良いと思うものは実行しておくことにするが、神頼みみたいなもの。4月に予定している出雲への旅行も実行することにした。あしたは寝台特急の切符を買いに行かなければ。

吟行仲間の一人は、放射能汚染を逃れるために大阪に移る計画を進めているらしい。まー集まった仲間たちはそれほど若い人はいないので、あと10年生きられればいいので、というような諦念の中で過している、というのが現実だろう。

春の地震15・スーパーマーケット

2011年3月27日 日曜日

B子の母親の葬儀も終わって、娘一家が帰えることなった。朝食後買い物してから帰ると言いだした。今までは仙台のほうが何かと豊富な食材があって、埼玉の我が家に来るときには珍しい野菜を車に積んできていたが、今回は全く逆だった。一昨日、昨日とスーパーに一緒についてきて、こちらのほうが豊富な食材があることを知ったのだろう。

特に今日は日曜の朝市がスーパーの空地で開催されていたので、なおさらその豊富さを感じたようだ。値段もぜんぜん安い、という。途中のガソリンスタンドには15,6台の車が並んでいた。「あら並んでいるわ」というと「あんなのぜんぜん平気、すぐ番が来るから」と驚かない。とりあえず、みんな日常生活は戻りつつあるようだが、次女は5月にならないと学校の再開のめどがたたないようで、ボランテアに行くそうだ。

このボランテアも誰でも出来るとは限らない。避難所まで自力で行ける人しか、お手伝いも出来ないのである。とりあえず次女は自分の車があるので、避難所へ行けるらしい。そこで、何処で手が必要なのかの指示を受けて、いろいろな場所へ行くらしい。最初の日はお年寄り一人で住んでいる家の倒れた家具や散乱した品物の片づけをしたようだ。

帰るために荷物を車に詰め込んでいると、仙台に住んでいることを知っているご近所の人が「大丈夫だった」と声をかけてきた。それにしても、娘の車は旅行のことも考えていつも四輪駆動の8人乗り。以前の車トヨタアルファードも乗りこむのに大変だったが、今度の買い替えた車はもっと乗り込むにに大変。

今や津波被害のことより原子炉事故がすべてのニュース場面を占めている。福島原子炉勤務の東電社員の苦悩もある。家族は津波に呑まれてしまっているが、その確認をすることも出来ないようだ。片やプロ野球のナイター自粛で、さまざまな分野の混乱困惑もある。たしかに、野球に限らず映画演劇は無用の長物かもしれない。そう言っていろいろなものを自粛していたら、国民全部がおろおろ無聊な日々を過ごさなければいけなくなる。

春の地震14・ガソリンスタンド

2011年3月26日 土曜日

友人の母親の葬儀のために夕べ我が家に押し寄せた娘一家と日帰り温泉に出かけた。仙台ではガスがまだ通らないので銭湯に通っている娘一家に並ばないで入れるお風呂で楽しんで貰おうとおもった。それだけではない、町のガソリンスタンドが夜も営業しているのも喜んでいた。日帰り温泉へ行く先々のガソリンスタンドが夜も煌々と灯をともして、人影もある。

仙台では出掛ける朝も8時から並んで、10時に開くスタンドを待って給油をしてきたという。こちらも昨日までは休んでいるスタンド゙ばかりだったと思うから、急にガソリン事情が豊かになったようだ。車の窓からスタンドを見付けるたびに「開いている、開いている」という歓声。こういう風景はどこかの国にも数年前にあったと思う。

朝食を食べて喪服で娘一家が出掛けたあと、しみじみ大勢とは活気を作るものだなーと実感した。電気釜のご飯があっという間に無くなった。いつものほんのわずかなご飯がいつまでも残っているのとは大違い。やはり、この活気がなければいけない。遠くの被災者も大切だが、その気分を何時までも日常に被せて置いては、なかなか復興の力も漲らない。

B子からの電話で、お悔やみを言いながら、「でも順繰りだから、私にもそういう日がいずれは来るから」というと、「そんなこと言わないでよ、お母さんと呼べる人が一人になってしまったんだから、しっかりして貰わなくちゃ」というのだった。そういえば、B子は高校生のころから私を「お母さん」と呼んでいた。

原発の被害はいろいろな問題を起している。流されもしないのに避難を強いられた人達はどんなに悔しいことだろう。

春の地震13・いつものリズムへ

2011年3月24日 木曜日

避難している人達に血栓が出来ているらしい。狭い場所に眠ることとも関係がある。だが、この頃の私の日常はその避難している人達と同じくらいしか動いていない。なんだか肩が凝って、頭が痛くて仕方がない。ただひたすらパソコンに向かっているだけでは、運動不足なのだ。こうしてみると、吟行や句会やらへ出掛けていることも運動になることを実感した。

明日は、図書館に出かけるが来週からは日常に戻る。休んだカルチャーの振り替えも決まって、少しずつ活気が出てきた。この機会に、今後の句会や吟行は自己判断で出欠をするようにと言うお知らせを廻した。遠い人近い人で状況も個々に違うのだから、揺れるたびにやるのやらないのと右往左往したくない。それに、地震への恐怖心も個々に違うのだから危険と思ったひとは休めばいいのである。この余震もまだまだ続くだろう。

地震から半月、多分大方の人が気持ちの立て直しをはじめたみたいである。5月に祝賀会をする結社からの電話で、「どうしようかと皆で協議したけど、やはり実行することにした」という旨の電話を頂いた。みんな、今回の地震が心を重くしているのである。夕方思い切って銭湯に出かけた。時間があればマッサージも受けたいと思ったが取りあえず銭湯でゆっくりジャグジーでもみほぐした。しかし今日の凝りはシブトイ。

突然娘が明日行くから、という電話。エ―、「だって道が・・・」と言うよりも早く、今日から東北道が開通したという。親友の母親が亡くなったらしい。家族ぐるみで東京と仙台の往来をしていた友人だ。道は通ってもガソリンが心配だったが、B子は東京は普通に売っていると言ったらしい。我が家の近所は殆ど閉ったままのカソリンスタンドだが、やはり都は違うのだ。

一家みんなで来ると言う。いやー急に正月へ逆戻りのようなにぎやかな家になる。肩凝りなんかになっている暇がなくなりそう。

春の地震12・放射能汚染

2011年3月23日 水曜日

原子炉の故障は大なり小なり当然放射能漏れが起るのは時間の問題だった。原発を作るときに、まさか故障など起きないと思っていたわけではないだろう。起きたら必ず今回の汚染問題が浮上するのは当然だ。今日は東京で水道水の一部も汚染していて、2歳以下の子供には水道水を飲ませんないようにと呼びかけている。怒りを通り越して、虚脱感に襲われる。20キロ以内で退避を強要された人たちはどんなに悔しい思いをしていることだろう。

風向きが変わったら今度は宮城県のほうが汚染されることになる。そのときにはもう一度、新たな汚染地域が広がることになるのだ。ようやく落ち着きを見せ始めた宮城県の人達を混乱の渦に巻き込まないで欲しい。娘の一家も多少の家の修理やら壁紙の張り替えなどをしなければならないので、散乱した家具や本を完全には整理していない。なにしろ、直ぐに業者がやってきてくれるわけではないからだ。ガスがまだ開通しないというので、IHのコンロを電気店から送ってもらった。仙台の営業所止めであるが、それでも進展である。ガスが使えないのでお風呂だけは銭湯を利用している。

古川に住む娘の連れ合いの実家では父親が入院していて、その看病に母親が付き添っているので、家の中の崩壊はいまだ手付かずの状態だという。それに業者でも頼まないと整理が出来ないくらい、倒壊しているらしい。家の中に居るときに地震に出合っていたら父母たちは重い家具の下敷きになっていたかも知れなかった、という。恐ろしい。娘の長女は仙台駅に居てこの地震に出合った。バリバリと凄い音がして屋根から物が落ちて来て、水が噴き出したりして、「まるで映画のようだった」と言った。多分、テーマパークのユニバーサルスタジオにいるような気分になったのだろう。

ついでだから書き記しておこう。成人式を済ませたばかりの次女は学校が休みで家にいた。その母親である娘は仙台市の中心でこの地震に出合って、急いで車を我家へと引き返した。途中あちらこちらで水が噴き出していたらしいが、道は通れたようだ。家の玄関前に犬を抱いて怯えていた次女と玄関を開けると、シューズボックスが倒れていて入れない状態だった。次女はそのシューズボックスが倒れる前に家から飛び出したのだ。二人は、一か所戸の外れかけた部屋があってそこから家に入ったようだ。

春の地震11・会のキャンセル

2011年3月22日 火曜日

さまざまな会のすべてがキャンセルだったが、その中で唯一実行された会があった。それもあの大地震の翌々日の13日である。自分の会やらカルチャーの中止をした後だったので当然そこも中止と思ったがお知らせがないまま当日の朝が来た。会場の市ヶ谷のアルカイデアに電話を入れてみると「やりますよ、お気をつけてお越しください」という返事が来た。

この心真会というのがちょっと内容が掴めないままの出席なのだ。主催者が明治書院のなんやらとあった気がしたが、今日思いだして書こうとしたときに、その案内のプリントなどを紛失していた。私が出席の返事を出しておいたのは、ただ、その会の中心が少し前に会ったばかりの恩師だったからである。老齢化で会員が減ったので教え子にも声をかけているという旨のことが書かれてあった。

その教え子の一人のわたしは、11日、まさに地震の直前に先生から電話を貰っていた。先生は会場がわかるかという心配をしているのだ。それで、あと同学年では誰が顔を見せるのか伺ってみたら、「君にしか声かけていないよ」というではないか。ヒイキという懐かしい言葉を思い出した。いやいや一番暇そうに見えたのかもしれない。「でも心細かったら誰か声掛けてもいいよ。当日来ても大丈夫だから」とおっしゃった。そんな経緯もあって、大地震のあとでも、あちらが取り消しにもしないかぎり欠席するわけにはいかなかった。

たぶんその先生なら、教育関係者があつまるのかなーと思った。私のテーブルには入社からずーっとその恩師の係だったという明治書院の社員がいた。恩師は80歳を越えていた。そうなると、もう地震なんて驚かないのかもしれない。会が始まって恩師が前のテーブルでスピーチをしているときにもぐらぐらと揺れた。恩師は「揺れているねー」という会話を挟んだ。

最後までよくわからない会だったが、隣に座った人は彫刻家の吉野毅氏、自決する前の三島由紀夫の彫刻を本人から依頼されて作ったそうだ。その方は「先生は美人好みなんですよね。以前女子大生の写真を持ってきて、それの彫刻が出来ないかなんていうんですよ。それがほんとうに綺麗な子なんですよ」とおっしゃった。明治書院の人とはその出版社から数年前刊行した「石鼎窟夜話」上下巻を話題にした。「先代の社長は石鼎が好きだったから」、と言うのだった。

春の地震10・調理器具

2011年3月21日 月曜日

ブログに「駈けつけることも、不足の生活物資を送る手立てもない」と書いておいたので、今日は知人が「営業所に受け取りにいくシステムで宅急便が送れるようになりました」と教えてくれた。それで、娘に問い合わせるとガスが使えないのでカセットボンベ、或いはIHのコンロが欲しいという。カセットボンベは難しいかもしれないが、IHの卓上用コンロなら手にはいるだろう。明日は電気屋さんに問い合わせてみよう。

人間の生活は逞しいと思った。徐々に徐々にではあるが前に進んでいる。しかしやはりだんだんと原発の被害も広がっている。当然の結果ではある。半径20キロの住民は避難の対象だが、その外側の地域の水道水から放射性ヨウ素検出(東京、埼玉、千葉、栃木、新潟、群馬)・ホウレンソウ、牛乳などからも放射能物資が検出されて出荷停止になっている。

このところ会という会のすべてがキャンセルだったので冬籠りならぬ春籠りのままパソコンに向かう機会は多い。とは言ってもこんなときに書くことがはかどればいいのだが、落ち着かなくて、案外何もしないで日が過ぎてゆく。心を引き締めていつものリズムに戻りたい。今日は80歳の祖母と14歳の少年が助け出された。二階の部屋に閉じ込められた二人が9日だか10日ぶりに助け出された。誰も瓦礫の山の中に生きている人がいると思っていなかったようだ。

中の二人も、外側での人声が聞こえても出られなかったらしい。ようやく9日振りに隙間からは出ることが出来て助けを求めたらしい。こんなときこそ警察犬などが威力を発揮したのではないだろうか。ドイツから応援にきた人達はその救助犬で瓦礫の中の死んでいる人を発見していた。生きて助かったのは奇跡的なことだ。寒かったのではないだろうか。

春の地震9・日常

2011年3月20日 日曜日

原子炉の仕組みがおぼろ気ながら掴めてきた。とは言ってもやはり原子炉は怖い存在であることに変わりがない。畑の葉物が放射能を浴びてるとかあびなかったとか。我が家の畑では葉物が採れ時なので買う必要はないのだが、地震以後売っていないのが納豆である。これはどこのスーパーでも売っていない。

今日の昼食は一つ残っていた冷凍しておいた納豆を開けてみた。自然解凍したものだが見掛けも味も遜色ない。それと畑で連れ合いが採ってきたばかりの小松菜の胡麻和え、こんにゃくの刺身、こんにゃくは地震で家にばかり居るためにやや体重が増えていることへの配慮。冷凍のシュウマイ。粕漬けの鯛、とは言ってもこれも自家製。食べきれない魚は粕に漬けておくことが多いのである。老人の二人家族は工夫をしないと、物が余って仕方がないから、この地震のときでも買いだめなどしない。

なかなか余震が収まらない。携帯の「緊急地震予報」が唸らない日はない。この携帯の「緊急地震予報」も揺れているのに鳴らなかったり、鳴っているのに体感しなかったり、どういう仕組なのだろう。情報の往来があるたびに、地震被害に遭った知人が増えてくる。

広島の印刷所から「ににん」の校正を「送りました」というメールが入った。こんなときだから何日もかかるのかと思っていた。ところが、いつものように翌日配達で届いたのは嬉しかった。少しずつ日常が戻ってきたような気分がする。

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