2016年5月 のアーカイブ

風にやヽ遅れて撓ひ鶏頭花   須原和男

2016年5月20日 金曜日

撓うことがないような鶏頭の花も、さらなる強い風が吹けば風の行方に流されてしまうのである。作者は貂の主宰者だった川崎展宏の匂いを句集の随所から届けてくれる作家である。

俳句という文芸は何でもない風景を詠むものなのだと改めて知る。風が鶏頭の花を傾かせたことを言うだけなのだが、それが作者の視点を通して鶏頭花を浮き立たせてくれるのである。

水が水追うて麓へ蕗の薹
木槿か明くる木曽路となりにけり
あたたかし戸袋へ戸を押しながら
揺れ戻す首のちからや白牡丹
いつのまに二百十日めの御飯
つまんだる指が映りぬ柿羊羹
『五風十雨』 2016年 ふらんす堂

夏めくや斧横たへてある土間も    茨木和生

2016年5月16日 月曜日

この斧は樵を生業にしている家のそれであろう。山の木を切るために用いる大きさがあるから(横たへ)の言葉も生きるのである。あるいは(横たへ)があることで、斧の存在感が浮き上がる。

横たえてあるのは、多分これから山に入るのからだろう。静物画を見るような印象的な構図で、まるで斧が生き物のようにも思える。

「第13句集『熊樫』東京四季出版」所収。この句集は1年を区切って創られたものだとある。ほとんどが、住んで居る奈良生駒の地で得た作品.

「熊樫」抄
酒蒸はよけれ麦藁鯛なれど
松茸飯炊くにぎやかに火を育て
どの家の裏も湖秋の風
鱧の旬すなはち祭近づけり
湖のなきごとけぶる雪解かな
どぶろくはぐいぐいと呑め鎌祝
神酒提げて山に入り行く年の暮

逢ひたくて螢袋に灯をともす

2016年5月15日 日曜日

ほたるびくろ

IMG_20160515_0001NHKテキスト

NHK「俳句」2016年6月号

鑑賞は大石悦子さん

毎年この季節になると思いだして貰えるのがこの句である。深夜放送の番組でも二度ほど登場した。明け方の4時過ぎなんて誰も聞いてくれないと思ったのだが、何人か聴いてくれていた。
当のわたしは結局聞かず仕舞いである。

新聞の一句鑑賞もあった。その一度は石鼎の出雲を大勢で回っていった道中で、真っ白な螢袋を大勢で愛でた日だった。

 

そういえば小学館の『1日歳時記』2008年初版 金田一秀穂の夏の夜の項目にもある。
「夏の夜」の部
雲の峰いくつ崩れて月の山          松尾芭蕉
膝の子や線香花火に手をたたく        小林一茶
白牡丹ある夜の月に崩れけり         正岡子規
逢ひたくて螢袋に灯をともす         岩淵喜代子
帰り来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕に匂ふ橘    式子内親王
もの思へば沢のほたるもわが身よりおくがれいづるたま(魂)かとぞみる 和泉式部

ちなみにこの歳時記の編纂者が挙げた夜の季語では、夏の夜と秋の夜の季語が圧倒的に多い。
さらに、全体を見回しても、選び出した季語は夏がいちばん多い。やはり、季節の活気のようなものが、影響するのかもしれない。

かたはらに水の光れる猫柳   伊藤敬子

2016年5月5日 木曜日

猫柳は銀白色の毛の目立つ花穂、ことに春先には河辺などで目を惹く植物である。「ネコヤナギ」と呼ばれる和名は、その花穂がネコの尾のようでもあるからだろう。確かに動物の毛並みを感じさせる感触である。

だがここでは、傍らを流れる水のひかりに焦点を当てながら、猫柳の花穂のひかりを重ねて、春のもっとも春らしい息吹を言い表している。

(伊藤敬子第十六句集『初富士』2016年  角川書店より)。この句集の装丁も素晴らしい。白の表紙に金文字の句集名。帯も純白、見返しが萌黄色。なぜか白無垢の花嫁衣裳のようである。

ほかに、(福笹を担げる人に蹤きゆけり)(秋草の吹かるる原を振り返る)(天平の色の玉虫掌に貰ふ)など、どの一句も俳句の王道をゆく句群が並ぶ。

大空の端は使はず揚雲雀  岩淵喜代子

2016年5月5日 木曜日

『笹』5月号  主宰。伊藤敬子
現代俳句月評  筆者・赤木和代

(「ににん」冬号「三角は涼しき鶴の折りはじめ』より)春の陽気を感じる頃、田圃の辺りを散策すると忙しそうに上空に囀っている雲雀をよく見かける。

大空は、まるで自分のものかと思っているかのように騒がしい。上五中七の「大空の端は使はず」というところに納得してしまう。

かと言って大空に端があったのかなと思いなおす自分に気づき笑ってしまう。「は」がこの句のアクセントになってしまう。

冬の宿風見るほかに用もなし    岩淵喜代子

2016年5月4日 水曜日

『雲取』主宰・鈴木太郎 5月号
現代俳句管見   筆者・下條杜志子

(「ににん」二〇一六年記念号)山間の一軒宿などを思う。まさに非日常の空間と時間が広がる。多分それを求めての旅だが、特別の用事もないままの、その放念の時が何かを生むに違いない。

風を見るという措辞は雪降る枯れ山や瀬頭の荒さを読者に差し出す。低音で詠まれていながら、その中身の濃さがひたひたと迫ってくるような句と思う。

初午や刃物を研げば空映り   岩淵喜代子

2016年5月1日 日曜日

『太陽』主宰・務中昌己
ーー秀句の窓ーー  筆者・高下なおこ

「俳句四季」3月号 巻頭句より。 初午は二月の最初の午の日に全国の稲荷神社や稲荷の祠で行われる祭。もともと春の農事を始める前の豊年祈願の祭であったらしく、この日は仕事を休んで神棚に油揚げや初午団子を供えたりしたようだ。

掲句の舞台は、稲荷神社の祭りの刃物の出店での景だろうか。ずらりと並べられた刃物が空が映るほど研ぎ澄まされて、春の陽射しに冷たい光を放っている様が見える。

一方、田舎の初午だとすれば、春の農作業の始まりに備えて鎌や鋏などを研いでいるのかも知れない。いずれにしても、季語初午が見事な取り合わせとなっている。

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