2014年10月 のアーカイブ

ハロウィン

2014年10月31日 金曜日

141031_1205~01 いつもの吟行のメンバーと『二冊の鹿火屋』の出版祝の食事会をして貰ったが思いがけないおまけがついた。レストランの外を通る子供たちはそれぞれお姫様の衣装だったり、魔法使いのようなマントを羽織ったり、明らかにハリーボッターに扮している子もいた。それぞれの南瓜を模った袋を下げており、たぶんお菓子の入れ物なのだろう。今日はハロウィンなのだ。

毎年10月31日に行われるハロウインは、古代ケルト人が起源のお祭りである。秋の収穫を祝いだが、現代では子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりすることが踏襲されているみたいだ。港が見える丘公園や外人墓地のあるあたり、という土地柄だろう。

周囲の外国人住居でも、みんなそれぞれのハロウインの飾りつけがなされていて、あちらこちらの箒にリボンが施されていた。行事をよく調べると収穫祭と年末と、お盆とを一緒にしたようなお祭りなのだ。家族の霊が蘇って訪れるが、それと同時に悪霊も訪れるというのだから、今日は地獄の釜が開けらるような日なのだ。

榠樝

2014年10月26日 日曜日

141027_0113~01  休日の黒目川の河原には必ず一つ二つのグループのバーべキュウの集いが行われている。家族連れのときもあるし、町内会のような大きな集まりだったり、学生のグループだったり・・・。この土手はいつも和やかな空気に溢れているのに、唯一気にいらないのは、頻繁に草刈をしてしまうので、秋草の乱れた風情を楽しめないことだ。

土手のある部分が毎年刈萱の群生するところがあるのだが、穂が出たなーと思う頃にすっかり刈られてしまう。河原をそんなに隅から隅まで頻繁に刈る必要があるのだろうか。たとえばバーべキュウーなどの場所は草が無い方がいいが、土手の斜面などはいくら草茫々でもいいのではないだろうか。

刈り残されて花をつけた枹杞が実をつけていた。それから帰り道で、ブロック塀の上に榠樝が並べられ「欲しい方はどうぞ」と書いてあったので一つ頂いてきた。しばらく机の端に置いておくことにした。

拙書『二冊の鹿火屋 -- 原石鼎の憧憬』がようやくそれぞれの手元に送られたようである。面白くもない本で、貰った人は困っているかもしれないが、『頂上の石鼎』とセットになるべき本だとは思っている。この本のカバーはににんの仲間の尾崎淳子さんの画を使わせていただいた。とても重厚なカバーになった。

句集祝賀会

2014年10月12日 日曜日

台風の予報ばかり繰り返すのを聞きながら、前橋で行われる宮本郁江さんと牧野洋子さんの句集祝賀会に出かけた。たった10人の会員で全部の式次第の準備をするのは大変だっただろうと思いながら、しかし、20年の歳月の集積によいけじめになると思った。

さいわい東京から「文学の森」と「東京四季出版」の方も馳せ参じてくださったので、句集のお祝いにふさわしい集いが行われた。

IMG_20141014_0002        IMG_20141014_0001

今回は、どちらの絵もお仲間の尾崎淳子さんの画を使わせていただいた。わたしは、本作りは表紙にも拘りたいたいとかねがね思っている。そういう意味でも出版社さんにも頑張っていただいた。

同じテーブルに煥乎堂書店の社長代理で専務さんがお見えになったが、「今日は芭蕉忌ですよね。俳人なのであえて選んだのかと思いました」と発言なさって吃驚。なんだか芭蕉忌・時雨忌・冬という順序で覚え込んでいたので、全然芭蕉にまでは意識が及ばなかったが、旧暦の10月12日が忌日なのだ。さすが書店に従事している方だ。この場にご家族の方たちも参加して頂いて、今までにないアットホームな祝賀会だった。

会のあとは、かねて予定していた前橋文学館に立ち寄った。文学館の前を流れる広瀬川の水の青さにびっくり。この日は祭りが行われていて、文学館の窓から山車が見えた。

足裏の火照りてきたる盆踊    岩淵喜代子

2014年10月11日 土曜日

筆者  赤木和代

(ににん夏号より)生活「踊」の傍題「盆踊」の解説に、俳句では単に「踊」というだけで、盆踊を意味する。盆踊は平安初期の空也上人や時宗の一遍上人が広めたと言われる念仏踊を起源とするもので、盆に迎えた霊を供養し、かの世へ送り返すためのものであったという。

今では、娯楽の要素が多い。櫓を中心に二重三重の輪を作って踊っていることが多い。盆踊の曲も新しいものは馴染がないが、昔から踊っている曲は自然と手足が動く。岩淵氏の句、時間の経つのも忘れるほど没頭して踊り続けたのであろう。下駄と足裏の摩擦熱も感じられる句である。(「笹」2014年10月号・現代俳句月評より)

十字架を真綿ぐるみに冬の霧   海野良子

2014年10月11日 土曜日

独特な視点を持った作者の立ち上げる映像は、霧の中の十字架を(真綿ぐるみ)とする。ほかにも、(羽抜鶏墓の建立見てゐたり)(美術館のやうな工場ぼたん雪

)にも感覚のの独特さを感じた。さらに、真綿という語が引き出される背景には信仰も感じられる。句集『時』2014年10月 邑書林より  (筆者・岩淵喜代子)

広げたる指すみずみに秋の風    守屋明俊

2014年10月11日 土曜日

映像として現れるのは空間に浮かんだてのひらだけ。しかも、一つの掌は五指をしっか開き切った生き生きとした手である。それが(広げたる指のすみずみ)なのである。なんと単純な景。しかし、その単純明快さが秋風を気持ちよく感じさせてくれる。ほかに(竹の秋大きな鳥は村を出て  西日家族)(あぢさゐの遠くに見えし安堵かな   西日家族)(鳥籠に鳥の影なき障子かな  蓬生)(歳晩の抱かれて子に見ゆるもの   日暮れ鳥)(滝が鳴る滝の切手を貼るたびに   日暮れ鳥以後)『守屋明俊句集』2014年 教育評論社 (筆者・岩淵喜代子)

春寒のすつかり濡れてゐる立木   かたしま真実

2014年10月11日 土曜日

濡れている一本の立木、それだけを思いやっている句である。さりげないつぶやきのような措辞によって、作者と交歓しているような一樹になった。もはや立木は単なる一樹ではなく聖者の様相を現わしてくる。第一句集『アッシジの丘』 2014年九月 ふらんす堂(岩淵喜代子)

秋真昼蝶の横貌見たやうな   牧野洋子

2014年10月10日 金曜日

東大寺大仏殿の盧舎那仏像の脇に銅製の蝶が留まっている。飛び立てば白鳥ほどの大きさになる。二枚の閉じた羽の上に見えるのはまさに蝶の横貌である。
句集名になったこの一句にも横顔が現れる。顔と横顔はわずかな視覚のずれにもかかわらず陰陽の差となるから面白い。もちろん顔は陽で横顔は陰なのだが、人はなぜかその陰の横顔に惹かれるのである。蝶の横貌を見たような見なかったようなと反芻するときに、秋真昼が俄に不思議な時空となる。句集『蝶の横貌』2014年 文学の森 (岩淵喜代子)

月蝕

2014年10月9日 木曜日

torino昨夜は居ながらにして、真正面に月の欠けてゆくのが良く見えた。それでも、窓よりは直に外気の中で月を見ようと思ってぶらついてみた。カメラ、と言っても携帯のそれに納めてみたが、肉眼では半分しかないのに、カメラの月は丸いのだ。ぼけているのだろう。

以前のガラ系の携帯カメラではしっかり月の輪郭が映ったのにアイホーンのカメラ性能は良くない。ここでも、以前の携帯性能を越えないので、高い電話料を払っている意味がない。それにしても、今年もあと二か月半ということになる。

今日の夕方、買い物帰りの朝霞台駅でバスを待っていたら、至る所の電線に椋鳥がいっぱい。あのまま夜も電線で眠るつもりなのか、ときどき一斉に電線を離れては、また元の位置に落ち着くのだった。今夜も月がまんまるだ。

馬小屋に馬の表札神無月    宮本郁江

2014年10月9日 木曜日

句集のタイトルになった作品。言われてみれば馬小屋にはその馬に与えられた名前がついていただろう。句は、そのことに視点を寄せている作者そのものとなる。
馬小屋に馬の表札があったという一事、ただそれだけで一句の世界は無限に広がってゆくのである。表札には生年月日や生まれた土地まで書き記されていただろう。それによって読み手もまた馬の命の経歴へ思いを馳せる入口に立たされる。第一句集『馬の表札』2014年 東京四季出版(岩淵喜代子)

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