2015年4月 のアーカイブ

仙台で

2015年4月18日 土曜日

150418_1307~01   150418_1306~01  150418_1224~04  一枚目の写真を見るとこれがラーメン店とは誰も想像しない。第一店の看板も見えない。ところが門を入って入口に立つと左手に看板らしきものがあった。これじゃー何屋さんかもわからないが、入り口には奥へ進んで並んでくれという案内が書き込まれていた。奥へ入ってもさらに奥まで進まないと人気がない。すべてはひとつのお屋敷の中なので、外からはその賑わいが全く感じられない。

ラーメン店の入り口を遠くに眺める位置の縁台に、20人くらいの人がいた。席が空くと見越しの松の向うの戸が開いて「何人!!」と尋ねる女性の声が掛かる。案内されたのが30分後くらいだったかもしれない。メニューはラーメンしかない。

曾孫の小学校入学祝に仙台まで行ったときのことだ。ラーメンでも食べていこうかということで、その気になっていたが、一瞬、娘夫婦の記憶が間違っているのかと思ったほどだ。味はちょっと濃い目のかつお出し味、まずいと言わないがどんなに美味しくってもラーメンですからね。なんだこの盛況ぶりはという感じだった。門の外の駐車場は昔映画館だった跡地だという。

ラーメンで腹ごしらえをした娘夫婦と私たち夫婦で、塩釜まで車を走らせて、夜の祝宴の食材探し。さすが海のもの山の物のどちらも豊富。筍はまだ九州産だが、山菜は周辺のものなのだろう。蕗の薹、こごめ、多羅の芽はもちろんだが、わらび、行者にんにく、うるい等・・・。見物するだけでも楽しい密度のある風土色だった。

杜若水を余白としてゐたり   村上喜代子

2015年4月4日 土曜日

この句に立ち止まると、ほとほと俳句は描写力だと思うのである。杜若の周りは水面であることは当たり前のこと。その当たり前の風景が「余白」という一語によって独創的に立ち上がってくるのである。

人は意識したものしか見ていないものである。花を見にゆけば、花しか目に入らない。一句は花から離れて水を見て、再び杜若の姿を立ち上がらせている。

(かげろふにひとりひとりのふたりかな)・(しらうをの影はしらうをより濃かり)・(ゆきずりの茅の輪とみればくぐりけり)

現代俳句文庫『村上喜代子句集』  2015年 ふらんす堂

ぺんぺん草

2015年4月3日 金曜日

150329_1444~01 ににんの仲間と近くの黒目川のお花見をした。花嵐とも呼びたい強風で桜は殆ど散ってしまいそうだ。土手の桜並木の外側には、秋にはコスモス畑になる土地に雑草がいっぱい。それもペンペン草が畝を作っていた。どうみても自生とは思えない。薺の種なんていうのもあるのだろうか。もっとも正月の七種には薺は必須である。店で売られている七種はこうして育てられたものなのかもしれない。

ずいぶん昔、「貂」の仲間と鎌倉吟行をしたときに、誰かが薺飯を作ってきた。それは、こんな風な畑のものではなく、野原に出かけて摘んできたものだ。あのときは川崎展宏先生とそのお友達だった飯島耕一氏も一緒だった。うろ覚えだが(鎌倉山へ担ぎ上げたる薺飯)というような句を詠んだのは飯島氏ではなかったろうか。なにしろ、「貂」には料理の上手な女性が揃っていた。

その「貂」のお仲間のひとりのお嬢さんが、今日の黒目川お花見の同行者辻村麻乃ちゃんなのである。鎌倉吟行をしていた頃、彼女は高校生くらいだったかもしれない。ほんとうに、月日を感じてしまう。黒目川のほとりには、枹杞も芽噴いていた。枹杞飯などという季語もあるのだから、この芽を摘んで炊けばいいのだろうか。どう見ても食べられそうもない葉である。秋には枹杞の実が成るのだから、見間違いをしているわけではないのだが・・。

草刈の終り裸になりにけり   太田土男

2015年4月3日 金曜日

この句、裸になった経緯を草刈で大汗を掻いたのでシャワーでも浴びるから、としたなら身も蓋もなくなる。本当に俳句という文芸は、身も蓋もない話を身も蓋もあるように詠み、身も蓋もあることを身も蓋も無いように詠むことなのではないかと思うのである。

ほかに(雪晴れや生きてゐますと煙出し)・(蓮見舟ふはり濁世へ戻りけり)・(鬼やんま目玉になつて飛び来る)など。太田土男句集『花綵』 2015年 ふらんす堂

花は葉に置かれた椅子が動かない    山崎文子

2015年4月2日 木曜日

俳句は瞬間を言い留めることで読み手への浸透力がより強くなる。まさに写真のシャッターチャンスみたいな間合いが必要である。しかし、冒頭の句の(花は葉に)の季語は時間が内在している。花どきから葉桜どきへの空間が込められている季語である。その空間が(置かれた椅子が動かない)の内容を物語っていくのである。

他に(柿の種あり暗闇も少しあり)なども鑑賞したい句。 山崎文子第一句集『冬桜』 2015年 東京四季出版

さくら草

2015年4月1日 水曜日

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枯れてしまったサボテンの鉢に桜草が咲いた。鳥が種を運んできたのだろうか。車で30分ほどのところには桜草の自生公園があり、国の天然記念物指定になっている。まだその時期に行ったことがないのだが、この桜草は私に見に行くことを促しすためにやってきたのかもしれない。

「ににん」58号の発送を昨日やっと終わらせた。今日あたりからぼつぼつ届きはじめるだろう。今回は校正の大失敗がある。写真も明瞭ではない。やっぱりカメラを買おうかな。

春ショール靡かせ鳥になる途中    山元志津香

2015年4月1日 水曜日

風の中の春ショールのはためく場面はなんとなく物語めく。そういえばこの句集の題名『木綿の女』も句集と言うより小説の題名のようである。

掲出句は風の中の春ショールのはためく場面を(鳥になる途中)ということばに置いた。ショールが風になびいて鳥のようだ、というならごく常套的な場面のまま終わってしまうが、鳥になる途中と言ったことで、一句の奥行は無限に広がってゆく。

句集に(成行きにまかす残年新樹晴)のような老いを読むこともあるが、総じて暗さよりは華やかさを感じさせる句集である。

秋彼岸帰路の双手のさみしくて
泡立草はしやぎ過ぎしと思ふ帰路
螺旋階段がんがん行くは寒九郎
水ごくごく飲んで月下の氷柱となる

山元志津香句集『木綿の女』  2015年 文学の森

電柱の影一本の暑さかな   森川光郎

2015年4月1日 水曜日

掲出句は(影一本)という措辞がすべての中心を成している。電柱などの存在を普段はあまり意識はしていないが、その影には目を止めやすい。目に停めるほど影は濃く横たわっていたのだろう。ふと(花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月  原石鼎)が思い出された。そういえばこの作者森川光郎氏は鹿火屋に属している。

揺れることもなく立つ電柱は、その影もまた微塵のさゆらぎもなく地上に横たわっているのだろう。その光景が暑さの象徴となって、夏を増幅させてますます一本の電柱の影を濃くしていくのである。

耕すと阿武隈川を渡りけり
かじりたるトマトの蔕は海に放る
高き木に高く雲とび七月行く
おぶさつてすすきぶつぶつ芒にいふ
夕芒ならびてどれも影持たず

森川光郎句集『遊水地』 2015年

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