枯れてしまったサボテンの鉢に桜草が咲いた。鳥が種を運んできたのだろうか。車で30分ほどのところには桜草の自生公園があり、国の天然記念物指定になっている。まだその時期に行ったことがないのだが、この桜草は私に見に行くことを促しすためにやってきたのかもしれない。
「ににん」58号の発送を昨日やっと終わらせた。今日あたりからぼつぼつ届きはじめるだろう。今回は校正の大失敗がある。写真も明瞭ではない。やっぱりカメラを買おうかな。
風の中の春ショールのはためく場面はなんとなく物語めく。そういえばこの句集の題名『木綿の女』も句集と言うより小説の題名のようである。
掲出句は風の中の春ショールのはためく場面を(鳥になる途中)ということばに置いた。ショールが風になびいて鳥のようだ、というならごく常套的な場面のまま終わってしまうが、鳥になる途中と言ったことで、一句の奥行は無限に広がってゆく。
句集に(成行きにまかす残年新樹晴)のような老いを読むこともあるが、総じて暗さよりは華やかさを感じさせる句集である。
秋彼岸帰路の双手のさみしくて
泡立草はしやぎ過ぎしと思ふ帰路
螺旋階段がんがん行くは寒九郎
水ごくごく飲んで月下の氷柱となる
山元志津香句集『木綿の女』 2015年 文学の森
掲出句は(影一本)という措辞がすべての中心を成している。電柱などの存在を普段はあまり意識はしていないが、その影には目を止めやすい。目に停めるほど影は濃く横たわっていたのだろう。ふと(花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月 原石鼎)が思い出された。そういえばこの作者森川光郎氏は鹿火屋に属している。
揺れることもなく立つ電柱は、その影もまた微塵のさゆらぎもなく地上に横たわっているのだろう。その光景が暑さの象徴となって、夏を増幅させてますます一本の電柱の影を濃くしていくのである。
耕すと阿武隈川を渡りけり
かじりたるトマトの蔕は海に放る
高き木に高く雲とび七月行く
おぶさつてすすきぶつぶつ芒にいふ
夕芒ならびてどれも影持たず
森川光郎句集『遊水地』 2015年
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