2012年5月 のアーカイブ

日蝕

2012年5月21日 月曜日

 今朝は日蝕を見るために目覚ましをセットしておいたが、それよりもずーと早く目が覚めてしまった。コーヒーもたっぷり飲み、朝食もとれた。もちろん日蝕用の眼鏡も買い求めてあるので、ときどき窓から陽を覗いた。快晴というわけではなかったが太陽は我家の東向きの窓からよく見えていて、6時半ころには欠け始めた。

 金環食は河原で見ようと思っていたので七時になると家を出た。黒目川沿いには日蝕を見るために集まった人たちがいっぱい居た。橋の上で眺める人やシートを敷いて河原で観測している人ご夫婦。私は散歩がてら河原を金環食になるまで歩いた。ダイヤモンドリングは確認できなかったが金環は完全に見えた。皆既日蝕ではないので世の中が暗くなるということはなかったが、日蝕が終る頃には「もういいでしょ」と言わんばかりに薄雲が覆いはじめて家に着く頃には雲に透けた白銀の太陽になっていた。

家に帰ってきてテレビを点けると六月何日かに金星が太陽の前を過るのが見るために、日蝕用眼鏡は捨てないようにと言っていた。ヘーそんなのも見えるんだーとなんだかだんだん天体づいてきた。

岩淵喜代子第五句集『白雁』 2012年4月

2012年5月13日 日曜日

burogunoMG

句集が出来上がって一ヶ月余になった。いつもそうだが本を出すと言うのは疲れるものである。心が空っぽになったような虚脱感も加わって何も手に着かなかった。出版社から個々への発送は済んでいたのだが、まだ漏れがたくさんあるのを承知しながらなかなか片付かないでいる。もう今から送ったら、余ったから送っているようにも思われてしまいそうだ。

でもでも、やらねばならいと思っていたら上記のような記事が朝日新聞五月六日の文芸欄にありましたと教えてくれる人がいた。検索してみると他にもあった。お礼を込めて、ここに紹介させて頂く。
栗林浩さんののブログ
百瀬七生子さんブログの「海辺の歳時記」
藍生会員五十嵐秀彦氏
角川出版
ブログ「spica」評者江度華子氏
石母田星人氏のブログ
小川春休さんのブログ
ブログ水無瀬に行こう
俳句の苑
季刊同人誌『晶』今月の受贈句集から
増殖する俳句歳時記
俳句魂
毎日新聞

ipad その5

2012年5月10日 木曜日

貰い受けたり買ったりした古い「鹿火屋」が300冊くらいある。連続していないのもあるが、大正12、3年のもある。それらを見終わったら図書館にでも寄付しようかと思っていたが、まだまだ全部は読み切っていない。というのは、あまりに紙の劣化が凄くて頁を開くたびにぼろぼろ綴じ目が開いてしまうので、読む時には心しなければいけないからだ。まるで落葉のように頁を開くたびに傷んでいくような気がする。ipadはこれらをスキャンしてどこででも見られるようにしたいと思ったからである。基本的には断裁してしまって跡形もなくなるわけで迷ったのだが、初期の50冊だけスキャンしてipad に入れた。

このデーターをクラウドにでも預ければ誰でも閲覧できることになる。今に仮想図書館が出来るだろう。すべての本を自宅で閲覧することが出来れば、大きな図書館も要らなくなる。初期の鹿火屋をデーター化したので、あとは迷うことなくスキャンして貰おうと思っている。しかし、このデーター化も冊数があると馬鹿にならない金額になる。それで、スキャンして貰う会社をいろいろ見渡したが、今までの利用した三箇所の会社よりも安い所もある。また、いくつかお試しで発中してみようと思う。

スキャンしたデーターの便利さは、文字検索が出来ること。情報を入れるとその箇所を提示してくれること。パソコンで行う検索機能と同じであるが、優れているのは頁を全部表示してくれることだ。確かにどこかに書いてあった思うようなことも、文字検索で探し出すことが出来る。石鼎全句集はすでにipad に入れてある。必要な句を探しだすのは簡単になった。

原発稼働ゼロとなる

2012年5月6日 日曜日

現在日本には原子力発電機は50機あるようだ。そのすべてが現在稼働中止になっている。休止の理由は個々の場所でちがうのだが、全体に共通している理由は、福島原発事故から起因している。とにかく、原発を使わなくても生きていけるのである。とにかく、ここで、原発禁止にするという国の方針が欲しい。

なぜ禁止にできないのか。必要だから、という答えになるのだが、必要なら危険でもいいという論理は成り立たない。国が禁止を決めてくれれば、それなりに電気事業が別の方法で始まる筈だ。現在その政府の方針が原発ゼロを掲げないために本来なら活発に起こる筈の電力開発が低迷なのだと思う。今日の原発稼働ゼロ日を記念日に電力を得る方法を根底から考え直して欲しい。取りあえず、原発禁止を掲げる政治家にこれからは一票を入れることにする。今の日本のもっとも大きな問題である原発について触れない、主張しない政治家などは、政治家の資格無しである。

今思えば東海原子力発電所のことだったと思うが、電力会社が見学会を行ったことがある。東海原発までいったのかどうかは定かではない。当時、原子力発電というものについての認識が余りにも無知であった。ただ、そこで、使いきった原発廃棄物をどこかに保管していることを説明していた。そこだけが妙に心に残っていたのは、年月の蓄積で、その原発廃棄物もどんどん増えてくということが気になっていた。電力会社は多分安全に保管されているからと言いたかったのだと思うが、安全である保管場所もひょっとして安全ではなくなる事態もあることである。

廃棄物といえば、毎日出る燃えないゴミ、というのも気になるのである。その量の半端でないのも気になるのである。市はその燃えないゴミを業者に委託しているが、それをどんな風に処理しているのだろうか。

神野紗希句集『光まみれの蜂』 2012年4月 角川書店

2012年5月5日 土曜日

その句集名と、その装丁がまず魅力的に飛び込んでくる。

   冬の水流れて象の足元へ
 作者の16歳から12年間の現在までを纏めた第一句集。神野紗希の名前はこれまで数え切れないほど眼にも耳にもしていたが、その作品をじっくり読むのは今回がはじめてである。頁を繰っていくと、勉強をしていることがよくわかる。
 例えば「春愁」という季語の据え方、「光年や」の象徴的なことばにぶつける具象的な叙述に、生死感にと、大方の先達の方法論を駆使してきたと思える。

 考えて見れは、誰もが先達の方法論を真似ながら作りだす。だが、そのあと呆然と立ち尽くしてしまうのは、殆どのことは言いつくされていて、いったい何を詠めばいいのだろうと思うからだ。「まだまだあるよ」と言える人は幸せである。

 冒頭の一句には永遠性を感じる。水が飼育係が撒いたものか、あるいは水飲み場からあふれたものなのか、あるいは、アフリカの原野を貫く冬の水なのか、一筋の水流を象の足元に捉えたところで、意志のような存在感が生れた。

起立礼着席青葉風過ぎた
白玉や言わねばならぬことひとつ
寂しいと言い私を蔦にせよ
春愁や葉書もバスタブも四角
ライオンの子にはじめての雪降れり
光年や欅の傍の息白し
蝶ひとつ表と裏のように飛ぶ
ひとところ金魚巨眼となりて過ぐ
なぐさめのつもりか金魚ひるがえる
数えるのはやめて見ている石鹸玉
たばこ屋の奥のテレビが瀧映す
人類以後コインロッカーに降る雪
食べて寝ていつか死ぬ象冬青空
スカートの一人遅れて夏野ゆく

「轍」 2012年5・6月号発行人大関靖博 編集人大橋俊彦

2012年5月5日 土曜日

俳 誌 探 訪    筆者大塚隆右
      
「ににん」2012年冬号より
                          
  ほとぼりのやうに残りし冬の菊   岩淵喜代子
 「ににん」の代表である岩淵喜代子氏の作。歳時記の既述では冬菊と言えば、冬になっても残っている菊と、冬に咲く菊の二通りがあるようだが、ここはやはり前者であろう。なんと言っても「ほとぼり」という言葉遣いに惹かれた。花盛りの頃の印象が、いまなお余熱のように続いているさまを言っているのだが、措辞の巧みさに感心させられる句である。

  燈火親し命ながらへ栗を食む   西田もとつぐ
 病が小康を得たころの句であろうか。燈火親しむといえば読書や音楽鑑賞などのイメージがあるが、作者は重い病の後とあって、まだそのようなゆとりの境地には至らないまでも、栗を食べてみようかという気持ちになれるところまでたどり着いた。控えめな表現であればこそ、安堵感や喜びというものが充分伝わってくる。

  打ち上げ大花火飽きる間もなく上がりけり  及川 希子
 打ち上が花火の種類というのも無数にあるわけではなく、幾通りかが交互に現れる仕組みになっている。とすればしばらく見ているうちに飽きがくるのでは、と思われるのだが、尺玉の大きなものが次々に打ち上げられ、大音響とともに作裂する迫力を楽しんでいると、時間のたつのを忘れてしまうようだという、臨場感が伝わってくる。

  ストーブのとろ火に溶けて眠る午後 木佐 梨乃
とろ火と聞けば即座に料理で使われるが、とろ火で三十分と煮込む、などの言葉が思い付されるが、ストーブに程よく暖められた部屋で、午後のひと時うつらうつらとまどろんでいる時の、なんともいえない心地よさを、自身がとろ火に溶けているようだと表現する、厨俳句ではないものの、男には及びもつかない発想の句である。

  火祭りのあとの鞍馬の星の数    武井 伸子
 昔から映画の時代劇などで鞍馬の火祭は、日本人にとってなじみの深い名前ではなかろうか。ここで作者は主役の火祭りには触れず、宴のあととも言える祭りのあとの闇の深さと、それゆえに一層際立つ無数の星の輝きのことを言っている。あかあかと燃え盛る炎の残像があってこその、星のまたたきの神秘さが、あざやかな対比として提示されている。

  背なの子のいつしか眠る遠花火   宮本 郁江
 飽きる間もない大花火と異なにり、ここでは遠花火である。高い階のマンションの部屋から見ていると、夏場の土日には遠くの花火がよく見える。おおむね間隔が長く音も聞こえないことが多い。作者もそのような花火を背中の子と一緒に見ていたが、とうとう眠ってしまったようだ。子供にとってはあまり刺激的でない遠花火の静かさ、間遠さをうまく表した句である。

  賤ケ岳鴨の陣敷く余呉の湖     宇陀 草子
 日本人にとって賎ヶ岳の名は、やはり秀占と柴田勝家の合戦や、いわゆる七本槍の逸話を伴って記憶されている。とすれば余呉の湖で鴨たちが、勝手に群れをなして泳いでいる様子を見ても、なにやら陣形を敷いての子細ありげな行動のように見えてしまう。想像力の働いた諧謔昧にあふれる句とかっている。

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