2012年5月5日 のアーカイブ

神野紗希句集『光まみれの蜂』 2012年4月 角川書店

2012年5月5日 土曜日

その句集名と、その装丁がまず魅力的に飛び込んでくる。

   冬の水流れて象の足元へ
 作者の16歳から12年間の現在までを纏めた第一句集。神野紗希の名前はこれまで数え切れないほど眼にも耳にもしていたが、その作品をじっくり読むのは今回がはじめてである。頁を繰っていくと、勉強をしていることがよくわかる。
 例えば「春愁」という季語の据え方、「光年や」の象徴的なことばにぶつける具象的な叙述に、生死感にと、大方の先達の方法論を駆使してきたと思える。

 考えて見れは、誰もが先達の方法論を真似ながら作りだす。だが、そのあと呆然と立ち尽くしてしまうのは、殆どのことは言いつくされていて、いったい何を詠めばいいのだろうと思うからだ。「まだまだあるよ」と言える人は幸せである。

 冒頭の一句には永遠性を感じる。水が飼育係が撒いたものか、あるいは水飲み場からあふれたものなのか、あるいは、アフリカの原野を貫く冬の水なのか、一筋の水流を象の足元に捉えたところで、意志のような存在感が生れた。

起立礼着席青葉風過ぎた
白玉や言わねばならぬことひとつ
寂しいと言い私を蔦にせよ
春愁や葉書もバスタブも四角
ライオンの子にはじめての雪降れり
光年や欅の傍の息白し
蝶ひとつ表と裏のように飛ぶ
ひとところ金魚巨眼となりて過ぐ
なぐさめのつもりか金魚ひるがえる
数えるのはやめて見ている石鹸玉
たばこ屋の奥のテレビが瀧映す
人類以後コインロッカーに降る雪
食べて寝ていつか死ぬ象冬青空
スカートの一人遅れて夏野ゆく

「轍」 2012年5・6月号発行人大関靖博 編集人大橋俊彦

2012年5月5日 土曜日

俳 誌 探 訪    筆者大塚隆右
      
「ににん」2012年冬号より
                          
  ほとぼりのやうに残りし冬の菊   岩淵喜代子
 「ににん」の代表である岩淵喜代子氏の作。歳時記の既述では冬菊と言えば、冬になっても残っている菊と、冬に咲く菊の二通りがあるようだが、ここはやはり前者であろう。なんと言っても「ほとぼり」という言葉遣いに惹かれた。花盛りの頃の印象が、いまなお余熱のように続いているさまを言っているのだが、措辞の巧みさに感心させられる句である。

  燈火親し命ながらへ栗を食む   西田もとつぐ
 病が小康を得たころの句であろうか。燈火親しむといえば読書や音楽鑑賞などのイメージがあるが、作者は重い病の後とあって、まだそのようなゆとりの境地には至らないまでも、栗を食べてみようかという気持ちになれるところまでたどり着いた。控えめな表現であればこそ、安堵感や喜びというものが充分伝わってくる。

  打ち上げ大花火飽きる間もなく上がりけり  及川 希子
 打ち上が花火の種類というのも無数にあるわけではなく、幾通りかが交互に現れる仕組みになっている。とすればしばらく見ているうちに飽きがくるのでは、と思われるのだが、尺玉の大きなものが次々に打ち上げられ、大音響とともに作裂する迫力を楽しんでいると、時間のたつのを忘れてしまうようだという、臨場感が伝わってくる。

  ストーブのとろ火に溶けて眠る午後 木佐 梨乃
とろ火と聞けば即座に料理で使われるが、とろ火で三十分と煮込む、などの言葉が思い付されるが、ストーブに程よく暖められた部屋で、午後のひと時うつらうつらとまどろんでいる時の、なんともいえない心地よさを、自身がとろ火に溶けているようだと表現する、厨俳句ではないものの、男には及びもつかない発想の句である。

  火祭りのあとの鞍馬の星の数    武井 伸子
 昔から映画の時代劇などで鞍馬の火祭は、日本人にとってなじみの深い名前ではなかろうか。ここで作者は主役の火祭りには触れず、宴のあととも言える祭りのあとの闇の深さと、それゆえに一層際立つ無数の星の輝きのことを言っている。あかあかと燃え盛る炎の残像があってこその、星のまたたきの神秘さが、あざやかな対比として提示されている。

  背なの子のいつしか眠る遠花火   宮本 郁江
 飽きる間もない大花火と異なにり、ここでは遠花火である。高い階のマンションの部屋から見ていると、夏場の土日には遠くの花火がよく見える。おおむね間隔が長く音も聞こえないことが多い。作者もそのような花火を背中の子と一緒に見ていたが、とうとう眠ってしまったようだ。子供にとってはあまり刺激的でない遠花火の静かさ、間遠さをうまく表した句である。

  賤ケ岳鴨の陣敷く余呉の湖     宇陀 草子
 日本人にとって賎ヶ岳の名は、やはり秀占と柴田勝家の合戦や、いわゆる七本槍の逸話を伴って記憶されている。とすれば余呉の湖で鴨たちが、勝手に群れをなして泳いでいる様子を見ても、なにやら陣形を敷いての子細ありげな行動のように見えてしまう。想像力の働いた諧謔昧にあふれる句とかっている。

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