筆者・渡部有紀子
岩淵喜代子句集『穀象』評
「ににん」代表の第六句集。平成29年ふらんす堂刊。栞に「群青」同人で西鶴研究者浅沼璞氏。
詩人の田中庸介氏。
穀象に或る日母船のやうな影
句集名となったこの句のように、影に着目した作品が多く見受けられる。
ぬきん出て鳥柄杓は影のごとし
飴紙めて影の裸木影の塔
蛇穴を出でて塔には塔の影
影を成すほどに輪郭のはっきりとした、形の確かなものに惹かれる心持ちの作者なのだろうか。
みしみしと夕顔の花ひらきけり
ハンカチを広げ古城の隠れけり
タベに開く薄い花弁に重量を与えて、その存在を堅固なものに転換している。遠景の古城を隠してしまうハンカチは、薄い布一枚であっても、読者の眼前を覆って存在感抜群である。 一方で、光を当てても影を淡くしか成さない硝子や水への興味は
水母死して硝子のやうな水を吐く
永き日や水にまぎるる鯉の群
のように、果たしてそこにあるのかと尋ねてしまいたくなるほどの存在の危うさを指摘した作品に仕上がっている。
菱の実をたぐり寄せれば水も寄る
形あるものを引き寄せればついてくる形なきものの姿である。
このように、気を抜いて見ていては、周囲にまぎれて容易には捉えられないものの存在を意識しているのが、作者岩淵氏の句の世界である。先に挙げた影を成す確かな形あるものへの興味は、形の不確かなものの姿を捉えたいと希求した裏返しとさえ思えてくる。
句集の栞で浅沼瑛氏は、俗人と共に暮らし、表面は俗人と同様の生活を営みながら隠者として暮らすあり方を形容した言葉である「陸沈」を使って、句集中の作品にある自己と他者との距離感や、他者への醒めたまなざしを明らかにしている。
その観点をも併せて考えると、形の輪郭がはっきりと捉えきれないものへの関心は、陸沈する作者自身の姿への自虐も込めたまなざしとも言える。
水着から手足の伸びてゐる午睡
帰省して己が手足を弄ぶ
セーターの背中柱に預けをり
自身については、その手足を詠んだ句が多い。輪郭を捉えることさえも難しいものに眼を凝らしてきた岩淵氏にとっては、自分で形を確かめることが身体の中で比較的容易な手足に関心が向くのは当然のことだったのだろう。
尾のいつかなくなる婦叫の騒がしき
月光の氷柱に手足生えにけり
今は長々とある蜥蜴の尾が時間とともに消失するように、今は確かにある自分の手足も、いつか無くなるのではと真剣に考えているのではないか。逆に、今はどこにも見えずとも、いつか氷柱に手足が生じてもおかしくないと本気で信じているのではないか。
生きてゐるかぎりの手足山椒魚
岩淵氏にとつて手足とは、命の尽きる時までのかりそめのものだと言うのだろうか。
くらやみのごとき猟夫とすれちがふ
足音を消し猪鍋の座に着けり
他者の存在も自己の存在も、闇に紛れるように容易に消失し得るという感覚が底に通っている句集である。