2018年3月 のアーカイブ

2018年2月号 「天為」 ~新刊見聞録

2018年3月27日 火曜日

   筆者・渡部有紀子

岩淵喜代子句集『穀象』評
「ににん」代表の第六句集。平成29年ふらんす堂刊。栞に「群青」同人で西鶴研究者浅沼璞氏。
詩人の田中庸介氏。

 穀象に或る日母船のやうな影

句集名となったこの句のように、影に着目した作品が多く見受けられる。

 ぬきん出て鳥柄杓は影のごとし
 飴紙めて影の裸木影の塔
 蛇穴を出でて塔には塔の影

影を成すほどに輪郭のはっきりとした、形の確かなものに惹かれる心持ちの作者なのだろうか。

 みしみしと夕顔の花ひらきけり
 ハンカチを広げ古城の隠れけり

タベに開く薄い花弁に重量を与えて、その存在を堅固なものに転換している。遠景の古城を隠してしまうハンカチは、薄い布一枚であっても、読者の眼前を覆って存在感抜群である。 一方で、光を当てても影を淡くしか成さない硝子や水への興味は

 水母死して硝子のやうな水を吐く
 永き日や水にまぎるる鯉の群

のように、果たしてそこにあるのかと尋ねてしまいたくなるほどの存在の危うさを指摘した作品に仕上がっている。

 菱の実をたぐり寄せれば水も寄る

形あるものを引き寄せればついてくる形なきものの姿である。

このように、気を抜いて見ていては、周囲にまぎれて容易には捉えられないものの存在を意識しているのが、作者岩淵氏の句の世界である。先に挙げた影を成す確かな形あるものへの興味は、形の不確かなものの姿を捉えたいと希求した裏返しとさえ思えてくる。

句集の栞で浅沼瑛氏は、俗人と共に暮らし、表面は俗人と同様の生活を営みながら隠者として暮らすあり方を形容した言葉である「陸沈」を使って、句集中の作品にある自己と他者との距離感や、他者への醒めたまなざしを明らかにしている。

その観点をも併せて考えると、形の輪郭がはっきりと捉えきれないものへの関心は、陸沈する作者自身の姿への自虐も込めたまなざしとも言える。

 水着から手足の伸びてゐる午睡
 帰省して己が手足を弄ぶ
 セーターの背中柱に預けをり

自身については、その手足を詠んだ句が多い。輪郭を捉えることさえも難しいものに眼を凝らしてきた岩淵氏にとっては、自分で形を確かめることが身体の中で比較的容易な手足に関心が向くのは当然のことだったのだろう。

 尾のいつかなくなる婦叫の騒がしき
 月光の氷柱に手足生えにけり

今は長々とある蜥蜴の尾が時間とともに消失するように、今は確かにある自分の手足も、いつか無くなるのではと真剣に考えているのではないか。逆に、今はどこにも見えずとも、いつか氷柱に手足が生じてもおかしくないと本気で信じているのではないか。

 生きてゐるかぎりの手足山椒魚

岩淵氏にとつて手足とは、命の尽きる時までのかりそめのものだと言うのだろうか。

 くらやみのごとき猟夫とすれちがふ
 足音を消し猪鍋の座に着けり

他者の存在も自己の存在も、闇に紛れるように容易に消失し得るという感覚が底に通っている句集である。 

2018年3月号『栞』 ~俳書の棚

2018年3月26日 月曜日

筆者・富田正吉

第6句集『穀象』岩淵喜代子(ふらんす堂)

見慣れたる枯野を今日も眺めけり
人類の吾もひとりやシャヮー浴ぶ
椎匂ふ闇の中より闇を見る
順番に泉の水を握りたる
花野から帰り机の位置ただす
踊の輪ときに解かれて海匂ふ
穀象に或る日母船のやうな影
水母また骨を探してただよへり
冬桜ときどき雲の繋がれり
青空の名残のやうな桐の花

岩淵喜代子は見巧者である.自分も他人も闇も風景も動物も植物も凝視している。
〈見慣れたる)は枯野に興を感じる俳人がいる。〈人類の)は透徹した自己を浮き彫りにして面白い。〈うきずりのえに
しがすべて親彎忌)には宗教観が窺える。〈椎匂ふ)は〈暗闇とつながる桜吹雪かな)と同様に暗闇派の面目がある。

(順番に〉は(麦秋や祈るともなく膝を折る)と共に鋭い身体感覚がある。〈花野から)は日常の些事を日記のように残している。〈踊の輪)は嗅覚の働きによる写生で場所が出ている。

〈踊手のいつか真顔となりにけり)も秀吟である。句集中最も光彩を放っているのは動物作品である。(穀象に〉の母船の卓抜な比喩、(水母また)の「骨」の人とのダブルイメージ、〈夜光虫の水をのばして見せにけり〉〈生きてゐるかぎりの手足山椒魚)はいずれも凝視の勝利と言ってょい。

〈冬桜〉も〈青空の〉も〈紅梅を青年として立たしめる〉も見巧者の面目躍如の作品ではないか。〈このごろは廊下の隅の竹夫人)の発見もさすがである。二六六句収録。

桜の開花

2018年3月25日 日曜日

DSC_0155

金曜日に撮ったもの。今日あたりは5分咲きくらいになって、河原は花見客で埋まっているだろう。風もなく穏やかな日和だ。

桜の頃はなぜか忙しい。それなのに後先も考えないで、旅行の企画に次々に乗ってしまうのは桜のせいである。今月末の桜吟行から始まって、四月の初めの富山の蛍烏賊を見に、次の週は富士山の見えるところで桜見物。

あとは用心して健康を保っておかないと、5月は大事な旅が二つも控えている。その一つが、詩歌文学館賞の授賞式にいくこと。自分のことなのに自分のことではないような気分でふわふわしているうちに、北上の文学館から二日間の予定表も送られてきた。

授賞式の翌日は遠野へ案内していただけるようだ。遠野は懐かしい。まだ東JRの新幹線が走っていなころに、夜行で遠野に行ったことがある。原裕先生の案内だった。

2018年3月号「鷹」  ~本の栞

2018年3月25日 日曜日

筆者・植苗子葉

岩淵喜代子句集『穀象』〈ふらんす堂 2017年11月 2700円)

作者は1936年生まれ。「鹿火屋」にて原裕、「貂」にて川崎展宏に師事し、2000年「ににん」創刊代表。本作は第六句集となる。
表題の「穀象」はごく小さな虫で、体に比して長い吻部を持つことからこの名がある。作者は巻頭に、

穀象に或る日母船のやうな影

の一句を置き、さらに表題句に採用した。
その心を次のように明かす。

知らなければその名を聞いて、体長三ミリしかない虫とは思わないかもしれません。その音律からも、字面からも、音語   りに現れてきそうな生き物が想像されます。米の害虫だという小さな虫に、穀象と名付けたことこそが俳味であり、俳諧です。(「あとがき」より)

確かに、この句集には俳味が溢れている。それは私が思うに、自由闊達な発想であり、想像であり、諧謔である。

水母また骨を探してただよへり

水母が骨を探しているという見立ての発想もさりながら、「また」の二文字を加えて物語性まで帯びさせたのが尋常ではない。一瞬でも骨を見つけたと思ったのか。切ない。

半分は日陰る地球梅を千す

季語と取り合わされているのは必ずしも新奇な発見ではない。むしろ当たり前じゃないかとさえ言われそうな事柄である。にもかかわらず、巨大な天体の運行とミクロな人の営みの配合はお互いを愛おしむべきものとして引き立てている。配合の発想の勝利といえないだろうか。

発想といえば、本作では収録句の約一割に「やう(な)と「ごと(く)といった直喩が使われている。藤田湘子が戒めたように、直喩の安易な使用には月並みか独りよがりに陥って失敗する危険がある。しかし、新鮮でしかも納得できるような直喩が強い印象の句を生むことも事実である。以下、本作から数句挙げてみる。

緑蔭の続きのやうな書庫に入る
葛の根を獣のごとく提げて来し
くらやみのごとき猟夫とすれちがふ

ひんやりした空気、立ち並ぶ高い書架。本のページを「葉」と数えることを考えに入れずとも、卓抜な喩えではないか。二句目は「獣」の一字が葛の茂る山の冷たい空気や、葛を提げる節張った指をイメージさせる。三句目は下五が比喩の鋭さと重さを増幅している。
そうかと思うと次のような軽やかなユーモアも見せる。

筆者とは吾のことなり青瓢
呆れてはまた見に戻る大氷柱
山楯子の実を盗み来て本棚に

青瓢との取り合わせや少し大仰な言い方に、照れくさそうな、あるいはいたずらつぽい作者の姿が見えて愉快だ。
この他にも、

放たれて桶に添ひたる大鯰
踊手のいつか真顔となりにけり
足音を消し猪鍋の座に着けり
音もなく西日は壁に届きけり

といった句に好感を持った。最後に、八十一歳の作者の高らかな宣言を紹介しよう。

曼珠沙華八方破れに生きるべし

守りに入るなよ、という叱咤とも取れようか。

2018年1月号「絵硝子」  ~現代俳句鑑賞

2018年3月25日 日曜日

筆者・高平嘉幸

新米に赤子の匂ひありにけり   岩淵喜代子
みどり児の瞳大きく雁わたし
うつむいて幡蜂の声拾ひけリ
(俳壇10月号)

一句目「赤子の匂ひ」とは意表をつく。確かに赤子の匂いは初々しく格別である。新米の匂いも青々しく 新鮮である。作者は恐らくお孫さんでも授かってその喜び を詠ったのかも知れない。

二句日、この句は正に「みどり児」の誕生を謳歌している。「雁渡し」の季語が適切で、 みどり児の将来が幸あれと願っていると見た。三句日、 「蟻蜂」の鳴き声は、いかにも淋しい。その声を「うつむ いて」拾ったという作者の心情が手に取る様だ。小動物に 対する愛情が伝わってくる。

2018年85号「八千草」 ~愛憎俳誌 

2018年3月24日 土曜日

筆者・横川博行

『穀象』岩淵喜代子句集(ふらんす堂)

「ににん」代表第六句集。岩淵喜代子さんは2014年発行の『二冊の鹿火屋』で俳人協会評論賞を受賞されていて、八千草二十周年の祝賀会にもご出席頂き、祝辞を頂戴した。

しっかりと事象を見て、詩の世界を構築していて、それぞれの句に深みがあり、学ぶところが多い。栞には連句の浅沼璞さんが「人称の多様性から」と題してこの句集の鑑賞文を書かれていて興味深い。

読み終えて五句を選んだ後で帯の作者の自選句欄を見ると一句目に山椒魚の句がありわが選句との一致に、嬉しくなってしまった。狐火の句には脱帽。いまや狐火を見ることもなく、いわば架空の季語であるが、鏡を据えることにより、そこに青白い炎がゆらゆらと映ってくるから不思議である。名手の技とはこのようなものかと感じ入った。

生きてゐるかぎりの手足山椒魚
みしみしと夕顔の花ひらきけり
狐火のために鏡を据ゑにけり
奥山の青い氷柱を遺品とす
春遅々と伽藍を繋ぐ石畳

2018年3月号『森』 ~愛贈句集拝見

2018年3月23日 金曜日

筆者・森野 稔
『穀象』岩淵喜代子(朝霞市)

同人誌「ににん」代表の第六句集。「ににん」には個性的な作家が集い、毎号実験的な取り組みがなされていることで注目を集めているが、この句集も極めてユニークである。句集は概ね暦年により編集されることが多いが、この句集はテーマ別に配列されている。しかもそのテーマ自体も曖昧模糊としており、最後まで作者の意図がはっきりしないようになっている。もしかしたらそれが作者の意図かも知れぬ。そうなれば、それにこだわっていても仕方がない。

良い句を選び鑑賞していくしかないと心に決めたが、感銘句がたくさんある。原裕に師事、其の後、川崎展宏に師事という経歴が多彩の顔をもつ作者を見せてくれる。

順番に泉の水を握りたる

中村草田男が幻住庵の芭蕉が使ったという泉に両手を差し入れ、芭蕉の面影を追ったという次の句が想起される。

(諸手さし入れ泉にうなづき水握る  草田男)

恐らく作者も大勢の人とそこを訪れて、草田男を思い、芭蕉を思ったのに違いない。

天道虫見ているうちは飛ばぬなり

(羽わつててんとう虫の飛びいづる 高野素十)

の句があるが、あの表面に見える赤い特徴的な翅は飛ぶ時には役に立たず、その下にある薄い羽根で飛ぶ。作者はそのことは承知しているが、天道虫を見た時にその様子をぜひ確認したくてじっと眺めているがいっこうに飛び立つ気配はない。

しまいには棒でつついたりして驚かせたりする。作者の短慮をあざ笑うようにそのままだ。半ばあきらめてちょっと目を離したすきにいつの間にかいなくなる。自然界の現象は人間の思い通りにはならないものだ。

水母また骨を探してただよへり

水母が漂っているのは、自らの骨を探しているのだという発想はそれ自体大変面白いのだが、決してそればかりではない。深い人生が見えてくる。己の骨を代表とする肉体を離れて浮遊する「たましひ」を水母に作者は見てとっているのではないだろうか。日前の実写風景から幽玄の世界までに遊ぶ喜代子俳句の本質を見る思いがする。

空青く氷柱に節のなかりけり

寒冷地帯の氷柱は途方もなく大きくなる。そして青空の下、芯まで透き通る。そんななかでふと心に止めた理知的な観察。夜ごとに太さと長さを大にする氷柱に樹の年輪と同じように節があってもいい筈だが、それがない。当たり前と思わずに懐疑的にとらえるのは人間のもつ豊富な知識が邪魔をしているのかもしれぬ。

本来の氷柱の持つ美さえまっすぐに捉えきれない人間の哀しさというべきか。

その他触れたかった佳句を抄出しておく。

穀象にある日母船のやうな影
人はみな闇の底方にお水取り

2018年3月号『雲』 ~句集を歩く

2018年3月21日 水曜日

岩淵喜代子句集『句集』評  筆者・関矢紀静

穀象とはまったく不思議な名である。本来は米につく害虫をさす、これを句集の名としたところから、もう作者の世界がはじまっている。

穀象に或る日母船のやうな影

小さな虫と、母船の対比がみごと、思わず納得させられてしまう。そして作者の目は水中の水母へと向いてゆく、この生き物も不思議な生き物だ。

水母また骨を探してただよへり
水母死して硝子のやうな水を吐く
生涯は水母のごとく無口なり

一句日、水母は骨を得て、人間に近づくのだろうか。二句目の水母は生の証として、体内の水を硝子に変えてゆく。三句目の無口な水母、無口だが、存在感がある。

みしみしと夕顔の花ひらきけり
雨乞の龍を崩せば藁ばかり
さざなみのやうに集まり螢狩

夕顔の大きな花の咲く時は、音が聞こえて来るようだ。人は雨ごいに藁の龍を作り、役目が終えれば元の藁に一戻ってゆく。螢の夜は誘い合わせたように人が集まり、話すこともなく螢を見る。日本の美しい景がある。

極楽も地獄も称へ盆踊

日本の民謡は、口頭で祭りや農作の手順を伝え、踊りも所作で伝えてきた。この盆踊りも古くから伝わったものだろう。

菱の実をたぐり寄せれば水も寄る
曼珠沙華八方破れに生きるべし

菱の実と共に寄って来たものは、水だけではなくもろもろの思い。最後の句、あの赤い花を見ると、気持ちが高ぶってくる、八方破れもまた然り。句集を通読すると作者の自在な心が見えてくる。花や動物、虫までも作者の分身なのだ。

2018年3月号「歯車」~句集の散歩道

2018年3月10日 土曜日

俳句の香りを楽しむ   筆者・門野ミキ子

岩淵喜代子さんの『穀象』は、『朝の椅子』、『蛍袋に灯をともす』、『硝子の仲間』、『嘘のやう影の やう』、『白雁』に続く第六句集である。岩淵さんの略歴をご紹介すると、 一九七八年原裕に、1979 年川崎展宏に師事、2二〇〇〇年より「ににん」代 表。エツセイや評論でもご活躍である。また、現俳 協研修部の通信俳句会では今期( 24期)の講師をご担 当くださっている。

「ににん」のwebサイトを覗いてみよう。
「俳句の俳とは、非日常です。日常の中で、もうひ とつの日常をつくることです。俳句を諧誰とか滑稽 など狭く解釈しないで、写実だとか切れ字だとか細 かいことに終わらせないで、もつと俳句の醸し出す 香りを楽しんでみませんか」とある。

句集『穀象』は九つの章から成っている。

〈穀象〉から
穀象に或る日母船のやうな影
青空の名残のやうな桐の花
椎匂ふ闇の中より間を見る
あとがきに「米の害虫だという小さな虫に、穀象 と名付けたことこそが俳味であり、俳諧です。それ にあやかつて句集名を穀象としました」とある。 穀象に母船とはなんだろう、そして或る日とは…。無限に想像の膨らむ奥の深い楽しい句である。

(水母〉から
水母また骨を探してただよへり
全身が余韻の水母透きとほる
天道虫見てゐるうちは飛ばぬなり
水母の句。骨のない水母が骨を探している滑稽、骨が見つからず余韻と断定された水母、透きとおるしかなかったのか。

〈西日〉から
夕焼けに染まりゐるとは知らざりし
人類の吾もひとりやシャワー浴ぶ
みしみしと夕顔の花ひらきけり
夕焼けの句。染まっているのは自分ではない。他 の人かモノだと思う。視点が新鮮。

〈盆〉から
赤子笑むたびにざわめく魂祭
踊の輸ときに解かれて海匂ふ
踊手の句。同じ動作を繰り返す盆踊り、そう言わ れればみな真顔である。鋭い観察、発見である。

(半日〉から
半日の椅子に過ぎけり竹の春
梨を剥くたびに砂漠の地平線
鶏頭へぶつかってゅく調律師
半日の句。半日何をしていたのか。そんな事はど うでもいい。各人各様の半日なのである。竹の春がいい。

〈冬桜〉から
狐火のために鏡を据ゑにけり
足音を消し猪鍋の座に着けり
冬桜遠くの方が明るかり
狐火の句。狐が口から火を吐くと言われている暗夜山野に見える怪しい火、それを鏡に映そうと言うのだろうか。鏡に映れば本物だ。

〈氷柱〉から
水仙を境界として棲みにけり
炬燵から行方不明となりにけり
呆れてはまた見に戻る大氷柱
炬燵の句。行方不明になったのは何だろう。考え るだけでも楽しい。そんなに深刻な行方不明ではな い。談笑の間こぇる愉快な句である。

(凡人〉から
凡人に真赤な椿落ちにけり
星暦のやうな物種もらひけり
麦踏みのつづきのやうに消えにけり
麦踏みの句。単に仕事を切り上げただけなのだろ うが、いつの間にか麦踏の人が消えてしまった。麦 畑の静寂さが伝わってくる。

〈巡礼)から
お遍路の踵に蟇のぶつかり来
貼り混ぜる切手とりどり巣立鳥
暗闇とつながる桜吹雪かな
お遍路の句。道連れは墓だったのだ。 ュニークな 取り合わせが楽しい。

どの句も自然な調べが心地よく、すんなりと心に 入って来る。そしてどの句にも余韻があって、それ がどんどん膨らんで、一句の世界が無限に広がって いく。決して答えを押し付けない自由さが、また心 地よい。「俳句の醸し出す香り」なのだろうか。発 見あり、共感あり、納得あり、 一句の世界の奥深さ を実感した。得難いお勉強をさせて頂いた。

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