俳句の香りを楽しむ 筆者・門野ミキ子
岩淵喜代子さんの『穀象』は、『朝の椅子』、『蛍袋に灯をともす』、『硝子の仲間』、『嘘のやう影の やう』、『白雁』に続く第六句集である。岩淵さんの略歴をご紹介すると、 一九七八年原裕に、1979 年川崎展宏に師事、2二〇〇〇年より「ににん」代 表。エツセイや評論でもご活躍である。また、現俳 協研修部の通信俳句会では今期( 24期)の講師をご担 当くださっている。
「ににん」のwebサイトを覗いてみよう。
「俳句の俳とは、非日常です。日常の中で、もうひ とつの日常をつくることです。俳句を諧誰とか滑稽 など狭く解釈しないで、写実だとか切れ字だとか細 かいことに終わらせないで、もつと俳句の醸し出す 香りを楽しんでみませんか」とある。
句集『穀象』は九つの章から成っている。
〈穀象〉から
穀象に或る日母船のやうな影
青空の名残のやうな桐の花
椎匂ふ闇の中より間を見る
あとがきに「米の害虫だという小さな虫に、穀象 と名付けたことこそが俳味であり、俳諧です。それ にあやかつて句集名を穀象としました」とある。 穀象に母船とはなんだろう、そして或る日とは…。無限に想像の膨らむ奥の深い楽しい句である。
(水母〉から
水母また骨を探してただよへり
全身が余韻の水母透きとほる
天道虫見てゐるうちは飛ばぬなり
水母の句。骨のない水母が骨を探している滑稽、骨が見つからず余韻と断定された水母、透きとおるしかなかったのか。
〈西日〉から
夕焼けに染まりゐるとは知らざりし
人類の吾もひとりやシャワー浴ぶ
みしみしと夕顔の花ひらきけり
夕焼けの句。染まっているのは自分ではない。他 の人かモノだと思う。視点が新鮮。
〈盆〉から
赤子笑むたびにざわめく魂祭
踊の輸ときに解かれて海匂ふ
踊手の句。同じ動作を繰り返す盆踊り、そう言わ れればみな真顔である。鋭い観察、発見である。
(半日〉から
半日の椅子に過ぎけり竹の春
梨を剥くたびに砂漠の地平線
鶏頭へぶつかってゅく調律師
半日の句。半日何をしていたのか。そんな事はど うでもいい。各人各様の半日なのである。竹の春がいい。
〈冬桜〉から
狐火のために鏡を据ゑにけり
足音を消し猪鍋の座に着けり
冬桜遠くの方が明るかり
狐火の句。狐が口から火を吐くと言われている暗夜山野に見える怪しい火、それを鏡に映そうと言うのだろうか。鏡に映れば本物だ。
〈氷柱〉から
水仙を境界として棲みにけり
炬燵から行方不明となりにけり
呆れてはまた見に戻る大氷柱
炬燵の句。行方不明になったのは何だろう。考え るだけでも楽しい。そんなに深刻な行方不明ではな い。談笑の間こぇる愉快な句である。
(凡人〉から
凡人に真赤な椿落ちにけり
星暦のやうな物種もらひけり
麦踏みのつづきのやうに消えにけり
麦踏みの句。単に仕事を切り上げただけなのだろ うが、いつの間にか麦踏の人が消えてしまった。麦 畑の静寂さが伝わってくる。
〈巡礼)から
お遍路の踵に蟇のぶつかり来
貼り混ぜる切手とりどり巣立鳥
暗闇とつながる桜吹雪かな
お遍路の句。道連れは墓だったのだ。 ュニークな 取り合わせが楽しい。
どの句も自然な調べが心地よく、すんなりと心に 入って来る。そしてどの句にも余韻があって、それ がどんどん膨らんで、一句の世界が無限に広がって いく。決して答えを押し付けない自由さが、また心 地よい。「俳句の醸し出す香り」なのだろうか。発 見あり、共感あり、納得あり、 一句の世界の奥深さ を実感した。得難いお勉強をさせて頂いた。