「自註現代俳句シリーズ・12期11 『浅井陽子集』より 2017年 俳人協会」より
滋賀県大津にある義仲寺といえば、木曽義仲の葬られている寺である。そのうえ芭蕉の墓もある。そう聞くと立派な寺を想像してしまうが、まことに小さな墓所である。
蜆売りの声がまともに寺社を筒抜けに通り過ぎていくのが想像される。ほかに(卒業歌聞こゆる島の港かな)(サングラス外して鳥を見失ふ)(新涼の机に貝の砂こぼす)など、風土の匂いのする一集である。
「自註現代俳句シリーズ・12期11 『浅井陽子集』より 2017年 俳人協会」より
滋賀県大津にある義仲寺といえば、木曽義仲の葬られている寺である。そのうえ芭蕉の墓もある。そう聞くと立派な寺を想像してしまうが、まことに小さな墓所である。
蜆売りの声がまともに寺社を筒抜けに通り過ぎていくのが想像される。ほかに(卒業歌聞こゆる島の港かな)(サングラス外して鳥を見失ふ)(新涼の机に貝の砂こぼす)など、風土の匂いのする一集である。
ふけとしこ著「俳句とエッセイ『ヨットと横顔』」2017年 創風社出版より
植物に詳しいというより植物や小さな生き物に、ことに興味を持っている俳人として印象を持っている。(まるまると)に続く(ゆさゆさと)で、毛虫と等身大になった作者が見えてくる。
ふけとしこ氏は「ほたる通信」というはがきの通信紙を発行して、俳句とエッセイを発表している。ここには、必ず手に取って、必ず読んでしまうという仕掛けがある。ほかに、(言い忘れすことばのやうに幹の花)(霜解けの始まつてゐる朝ごはんおとうとをタマト畑に忘れきし)(遠く見るものにヨットと横顔と)などの作品がある。
『ランブル』2月号
現代俳句鑑賞62 筆者 今野好江
『俳句』十二月号 「子規忌」より
上田五千石の『俳句塾』の中に季語に関する一文がある。「季語にはなるべくして季語になった事由がある。歌人、連歌師、俳諧師、俳人の審美眼によって汎く平俗の言葉の中から採取、且つ培養、育成、愛用されて日本の歴史の永く深い時の鍛冶(たんや)を経て結晶化した詩語であることの尊厳をこそ思うべきである。――――」
筆者自身、初学の頃、蚤、民、芋虫、軸蜒、ごきぶりに至るまで季語であることに驚愕した。やがて毒性もあり、人を刺す嫌われ者のたとえにもなる〈毛虫〉でさえ、愛情とまではいかないが普通に見ることが出来るようになった。〈一切皆空〉とは仏教語であり、あらゆる現象や存在
は実体をもたず空であるという言葉である。これは心の迷いを去って真理を会得ことなのかも知れない。悟りきれない人間には、〈もくもくと〉ゆく毛虫を少し羨ましいと思っている。同時掲載に
三日月に吊しておきぬ唐辛子
「句集『5コース』2017年 邑書林」より 帯文・小川軽舟 非常にシンプルな切り取り方をした作品である。シンプルではあるが、イエスの像か絵画かが正面にあるのだとすれば、カトリック系の学校なのだろう。讃美歌も歌い慣れていて、荘厳な空気が伝わってくる。 他に(宝石に小さき値札春霙)(風花の音とも覚ゆ炭手前)(薯食うて鼻が大きくなりにけり)など。繊細な切り取り方と大胆な切り取り方がある。岩淵喜代子
『饗宴』3月号 現代俳句の窓
筆者・中村克子
芋虫は蝶や蛾などの燐翅目の昆虫の幼虫類全般を指していう。キャベツなどを食い荒らす青虫も芋虫の一種だという。我が家の無農薬菜園にも芋虫がのさばている。ことに青虫が多く、毎日が青虫との闘いである。
芋虫に足が3対6本あるとは言われているが、手があることは知らなかった。イモの葉やキャベツなどを食い荒らす害虫も、自分の命を守るために一生懸命である。”一心不乱なり”にどこか憎めない面白さがある。
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『燎』2月号 現代俳句展望
筆者・蔵多得三郎
「俳句」12月号「特別作品21句 子規忌」より
掲句、何だか自分のことを言われているような気がする。よく見ると芋虫は芋虫なりに一生懸命に手足を動かして這っている姿があまりにも一心不乱でつい笑ってしまうのだが、よく考えてみるとひょっとしてこれは自分自身の姿そのものではないかと思えてくる。「一心不乱なり」の措辞に生真面目な可笑しさがある。
『風土』2月号 現代俳句月評 ・筆者・中根美保
「俳句」12月号(子規忌)より
獣でもないものを獣のようだという作句例は多いが、掲句は「提げて来し」が眼目。山に入り、澱粉を蓄えて肥大した葛の根を掘り出して来た人物の様子を詠んでいる。葛の根もまた猪などの捕獲物と同様、山の恵みという背景にあろう。
繁茂し過ぎて他の植物を駆逐するほどの葛の生命力も思われる。葛の根を「獣のごとく提げ」て来たのは、ときには山から本当の獣も提げ返ることだってある山の男なのかもしれない。
「空」2017年2・3月号
俳句展望 筆者・天谷 翔子
(『俳旬』十二月号より)柘榴のあの赤い美しい粒を詠みたくて何度か考えたことがあるが、ルビーのようなという平几な言葉しか浮かばなかった。硝子の粒、そう、あれはまさに硝子の粒。しかも〈あふれだす〉という措辞の上手さ。
同時掲載の〈道祖神今日は団栗山盛りに〉にも惹かれた。道祖神の前に団栗が置いてあるという平几な景が、〈今日は)という措辞で一気に佳句になる不思議。毎日道祖神を訪れる子供たちがいるのだろう、昨日、一昨日は何がおいてあったのだろう、と想像させる。〈山盛りに〉も映像が鮮明で、道祖神への愛情の溢れた表現だ。
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「火星」2月号 俳壇月評より
筆者・坂口 夫佐子
『俳句』十二月号「子規忌」より).割れた柘稽の実はその色、形から凡そ美しいものの代名詞からはかけ離れたもの、寧ろグロテクスなものとして扱われることの方が多いように思う。
それがあの割れた赤い実の粒粒を「硝子の粒」と捉えたことによつて、日の光を返す宝石のように見えてくるのだから、言葉の持つ力は大きい。俳句は詩。固定観念を捨て去り、素の心で対象に向き合うとき、思いがけない発見があり、詩情豊かな句が生まれる。
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『麻』1月号 現代俳句月評
筆者・川島一紀
『俳句』十二月号「子規忌」より。柘溜の実は、熟れてくると、堅く厚い皮が割れて中にぎつしりと詰まった淡紅色透明の液体を周囲に含む種が見えてくる。この淡い赤色の透明な粒は非常に美しい。ますます割れ目が広がってくると、その粒がこぼれそうになる。その透明な淡赤色の粒を硝子の粒と称した表現に詩情が溢れる。石榴の粒を硝子の粒に喩えた感性に感服。
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