2011年4月 のアーカイブ

2011年4月27日 水曜日

新幹線が仙台までは繋がったので一泊してきた。この時期の福島のあたりは桃畑が満開だったが、家家の屋根は地震でかなり傷んだようだ。応急処置を施した屋根が続いていた。わが娘の家も一見何でもなようにも見えたが、よく見ると至る所ではがれた壁紙をテープで応急処置をしていた。

連休明けからやっと授業再開の孫はせっせとアルバム作りに励んでいた。同級生で津波に家が流されてしまった人もいて、そうした友人たちのために作っているらしい。そういう応援もあるんだと思いながら眺めてきた。テーブルの上には安否確認の問い合わせのハガキがあった。ボランテア先の障害者福祉事業所からのものだ。ハガキには「ご家族は」、とか「家は」というの質問項目が並んでいた。そんな感じでやっと平常に戻りつつあるようだ。

石巻あたりでは、それまで売れなくて値下げをしていた建売住宅が、あっという間に売れてしまったという。被災直後から買い求めるひとたちが、携帯電話の番号と共に買うから連絡をという紙を、売り物の住宅にべたべたと張っていたらしい。ガソリンもない時で、お互いが身動きできないときだったが、たしかにこれから建てるのでは数カ月待たなければならない。

今年は桜を地元で眺めたあと出雲でまた満開の桜に出会ったが、仙台は辛夷の花と桜が同時に散っていた。テレビで弘前の桜の見ごろが5月1日くらいと報道していた。

俳壇年鑑2011年

2011年4月26日 火曜日

実力作家の秀句

  大足の人も虫干ししてゐたり    岩淵喜代子
  浜豌豆咲けばかならず叔母が来る
  まるごとが命なのかも海鼠とは

 俳諧味を含み,手強い句を読んだという充足感が残る。一句目、大足小足の出る慣用句は、今は憚られるとこであろうか。小事に拘らず大胆な句。二句目は叔母と浜豌豆の取り合せに説得力がある。三句目、そう言われてみれば、摘出した父の臓器も、海鼠のようであった。  (評者・小林貴子)

電子レンジ

2011年4月25日 月曜日

電子レンジを買い換えた。20数年前に購入したもので、使うつもりならまだ使えたが、ときどき手も触れないのに勝手に稼働のメモリが表示されたりして、買い替え時かと思ったのである。しかし、洗濯機やエアコンは日々いろいろな機能の進歩があるが、電子レンジに限って言えば、ほとんど当初の機能が完成していたみたいな気がする。

要するに、「いまはそんなこともやってくれるのね」というような目新しい機能はみられなかった。最近の新たな機能はスチームだけだ。勿論、目に見えない部分では消エネなどが行われているのだろうが、価格だけは20数年前の半分になっていた。まだ、新しい器具に馴染んでいないので比較が出来ないが操作を熟知するのに時間がかかりそうだ。

ちなみに以前の電子レンジは「ご飯」というボタンを押せばご飯が炊けたのである。どんな風に炊くのかと言えば、重さを感知したレンジが勝手に始動したり停止したりしながら、火加減を調節しているすぐれものだったが、今回のレンジにはそうした単純明快なボタンはなさそうだ。ただ、新しい電気器具に替えると、30パーセントくらいの電力消費が抑えられるらしい。

今日から東北新幹線が仙台まで開通した。今月中には八戸まで繋がるらしい。震災から45日ほど掛かった。

『吉野』2011年4月号・主宰野田禎男

2011年4月24日 日曜日

結社誌紹介  筆者 野田禎男

◎「ににん」 平成二十三年冬号岩淵喜代子代表
 
 創刊十周年記念号である。ユニークな同人誌として注目を浴びてきた「ににん」も、十周年を迎えた。心よりお慶び申し上げます。特徴の一つとして「物語を読む」があり、今回は、部外寄稿者に、岸本尚毅(千軒岳)、斎藤慎爾(田園に死す)、筑紫磐井(プロレゴメナ)、山木忠栄(桜の森の満開の下)があり、「ににん」を読んでに、中上哲夫、中西夕紀、行方克己が寄稿している。行方克己は、「ににん」の特徴について、「なるほど確かに興味深いのであるが、ここに詠まれた一句一句がはたして独自性を発揮するであろうか、という疑問がどうしても残る。果たしてここからオリジナリティーが創出できるかどうか」と述べているが、自然を見るつもりで、物語を読んでも良いように思われる。会員の皆さんは、「古事記」から「星の皇子さま」まで、広範囲の作品を取り上げている。
 ちなみに岩淵代表は「タイムスリップコンビナート」を詠んでいる。
 
  みな模倣模倣と田螺鳴きにけり       岩淵喜代子
  かはほりのうねうね使ふ夜空かな
  三角は涼しき鶴の折りはじめ

  一月号の「ににん集」の共通テーマは「月」であるが、この点についても行方克己は「うっかりすると座興に終わってしまう恐れなきにしもあらずだが」と問題提起している。各人が自由に詠む「さざん集」もあるので、これぞ「ににん」の特徴と思っている。ますますのご発展をお祈り申し上げます。

『爽樹』5月号より

2011年4月22日 金曜日

『ににん』2011年秋号 (筆者黒岩裕介)  
                            代表 岩淵喜代子   (通巻四〇号)季刊
                            発行所       埼玉県朝霞市溝沼
 
 平成十二年十月朝霞市にて岩淵喜代子により創刊。同人誌の気概ということを追求していきたい。    

   父母の知らぬ世に生き金魚玉   岩淵喜代子
 
 「金」をテーマとした「ににん集」の「金魚玉」と題した一句。〈父母の〉生きた時代と〈父母の知らぬ〉今とを結ぶものとしての「金魚玉」。それは時空を超えた宇宙空間の凝縮であり「命」を育むものでもある。感慨深い大きな一句。
  
   篭火に鵜使ひの所作うつくしき    伊丹竹野子
 
意欲的な企画「物語を詠む」で榎並左衛門五郎作の能『鵜飼』を詠んだ一句。甲斐の石和川で禁猟の罪で殺された鵜匠の亡霊が、旅僧に悔いて鵜使いを舞う最も美しい場面を、十七音で見事に詠み切った。幻想と詩情溢れる感銘句。

   漕ぐやうに鉾あふられて向きかはる  長嶺 千晶

 掲向も西口克己作『祇園祭』を詠んだ一句。室町末期、祇園祭復興に誇りと平和を希求した京都町衆の姿を描いたもの。山鉾巡行の見せ場「辻回し」を〈漕ぐやうに〉と捉え、祭復活の喜びとうねるような町衆の力を鋭く描いた。

  一冊の中の一生秋灯         中村 善枝
 
  一冊に一生が詰まっているという把握と作者の烔眼に畏服した。工員の中の一生〉に自らの生き方を重ねつつ秋の夜は更けてゆく。生きるということを問うて含蓄深い句。

                                              

百鳥』3月号・主宰大串章 

2011年4月22日 金曜日

現代俳句月評   筆者 青池 亘

聞き取れぬことばも混じり海鼠売     岩淵喜代子
         「俳句界」1月号より

かって新しい言葉は都で生れた。故に、都から遠く離れた地方には古い言葉が残っているという。ひなびた海辺の市のことばに、聞き取れないものがあるのだ。しかし、旅人に(聞き取れぬことば)の中には、古層の日本語が生きているのかもしれない。どこかエキゾチックな句である。

かたくりの花

2011年4月16日 土曜日

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蕗の薹を見ると天ぷらにしたくなる。隣にかたくりも山菜として売られていた。買ってきてコップに差したら水を吸い上げた。夕方の準備に取り掛かる直前に5弱の地震。栃木が震源地だというから、だんだん関東に地震の核が下りてきたみたいな感じだ。

大地震から一カ月が過ぎたが、まだ瓦斯・水道・電気の全部が回復していないところもあるらしい。海辺は災害に見舞われやすい条件が揃っているのだから、この際更地になってしまった場所は国が買い上げて、津波にも残る集合住宅を作ったほうがいいのではないだろうか。

すべては国のお金が使われるわけである。国のお金とはいうなれば我々のお金である。なるべく有効な復興の方法を選んで欲しいと思う。地震が無かったとしても、現在の日本経済は一人あたりがかなり高額な負債を抱えている筈である。今回の災害はそれに上積みされる負債になる筈fだ。

泉区に住んでいる娘の家では、すでに地震保険の交渉も完了して家の修理に入る段階になった。

原発事故

2011年4月15日 金曜日

寝台特急でぐっすり眠ることが出来て、東京駅から小一時間後には自宅の朝風呂に入ることが出来た。だがその後が大変だった。二件のフアックスの一つが校正。それも出発した日に入ったもので、翌日には印刷に入るというもの。

原稿に大きな間違いがあったようだ。大変とばかりに電話を入れると、あのまま印刷所に入っているという。「すみませんー」と訂正のお願いをしたら、間に合うみたいだった。編集者の女性はいつものように優しい声だった。ホッ。

夕方は飲み会の約束があったが、話題はさすが大震災、しかも原発に集中した。5時から9時半までその原発の話題からそれることはなかった。この原発の在り様に対してあまりに無知だったということは集まった7人全員の意見だった。

原発をその地に誘致した人達も私達同様に無知だったのである。今回の事故はその国民の無知さ加減が露呈したのである。今後、この原発を新設する県はないだろう。中の一人が自分の貧しい村がなぜあんなに裕福になったのか不思議であったが、今回の原発のことで調べてみたら、その施設のある町村には年間に莫大な金額が電力会社から支払われていることが分かったそうである。

そうだとすれば、今回の事故では今まで電力会社から下りていたお金を根こそぎ取り返されてしまったような被害だったのではないだろいうか。それだけならいいが、福島原発のそうした恩恵に浴していない隣町も被害を受けているらしい。帰りに買った「週刊現代」の中に「危険性を訴えたら監視、尾行された・迫害され続けた京都大学の原発研究者たち」という記事があった。

結果、俳句のはの字も出ないまま私は中締めで失礼したが、熱気はそのまま続いて深夜になったのではないかと思う。

出雲の旅

2011年4月14日 木曜日

2度目の出雲神話の旅に行ってきた。夜行列車で行って夜行列車で帰ってくるのは疲れれそうだが、この出雲に限っては個室寝台に慣れてしまったせいか快適で有効な時間の使い方が出来るのである。東京を22時に乗り込んで翌日10時に出雲に着くという時間も長いようだが、行きはすぐに就寝の体制に入り、朝食も列車の中で済ませておくので、到着と同時に目的地への行動が始まる。帰りは19時出発で東京着が朝7時なので、眠る前に2日間の旅の整理に集中出来る時間が充分あった。

今回は出発の夕方にも大きな余震があったりで、どこかに怯え心も潜んでいたが安心という日など当分訪れないだろうと思う。記紀の土地を踏破しているWさんに先導されての旅だが、その先導者Wさんは私が睡眠薬で寝てしまうことを知って、ふたりとも寝込んでしまっては大変と睡眠薬を我慢したらしい。そんなことを知らずにぐっすり眠った私とWさんは出雲の手前、宍道駅に降りた。

お願いしておいたタクシーの運転手さんは初対面だったが、一回目の旅の時に偶然乗り込んだタクシーの運転手さんの紹介してくれた方なのである。多分、私達、ことにWさんの記紀の知識に合わせられる人を選んだようだ。それを知ったのは二日目の佐香神社の前でお土産を持って待っていてくれた時である。こう書くと、一回目の旅で持ってる知識を振りかざして運転手さんが困らしたのではないかと思われそうだ。

しかし、絶対そんなことはない。Wさんはそれは物静かな方なのである。私達は帰りに偶然だがよく知っている人で幸運だった、と話合ったくらいなのだ。それで2回目の案内もお願いしたのである。さすが、紹介して下さった2回目の旅の運転手さんは記紀の講演も出来そうな方だった。出雲のタクシー運転手さんは篤い。もし出雲の旅をする方には紹介しまーす。

前にも書いたと思うが、この旅を思いついたのは石鼎が出雲の土地や神社を語るときに、いつも出雲風土記を引用するからである。そうしてことに、「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」を得た場所が、神武天皇の斎場跡であることが検証された昭和5年以後に急に神の句が増えているからである。稲佐浜での神迎え神事の始まる一カ月前から歌舞音曲を控え家の新築も控えるというのは今も踏襲されているという。

東北関東大震災最終

2011年4月9日 土曜日

就寝前にベットの廻りを小綺麗にしておく習慣は、以前眩暈で救急車のお世話になってからのもの。それに地震以後加わったのが、バッグと上着を一緒に目につく所に用意することだ。バックの中には当座の薬やPCのメモリーなど。ほかに救急用のバックを整えつつある。

7日の真夜中の地震はふたたびの地震の恐怖の再現だ。地震と同時に仙台の娘の家は停電になり、その回復まで一昼夜掛かったようだ。3月11日に一人で家に居て大地震に出会った孫は、その日も反射的に玄関の戸を開けて外へ飛び出したようだ。電柱から火花が出ていたという。

3月11日の地震は日本での史上最大のものだが、7日の余震もやはり余震としては最大のものらしい。遠く離れた地にいても怖いのだから、震源地に住んでいる人達はどんなにか怖いだろう。余震と同時にガス漏れが各所で発生、停電はかなり広範囲で、エレベーターに閉じ込められた人もたくさんいた.こんな怖い体験をした人達は人生観も変化するだろう。

今日の新聞には日本生命の保険金支払いが神戸の4倍という記事がでていた。ここからも今回の被害の大きさを想像することが出来る。今日のブログで最終とは書いても、多分復興はこれから始まるのだろう。地震と津波も悲惨だったが、それに加わった原発事故は許せない。こうしたことに携わる科学者の責任はどうなるのだろう。この結末を見続けようと思う。その5年間の記録も、15周年「ににん」に反映させるつもりである。

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