窓 俳句結社誌を読む 筆者・馬場尚美
「ににん」2016年 夏号 vol 63号
「ににん」は平成十二年秋、埼玉県朝霞市にて岩淵喜代子が創刊。「同人誌の気概」ということを追求していきたいとある。師系は原裕。季刊。
まひまひやおのが輪脱げぬまひまひや 正津 勉
なめくじは負う家も無しなめくじは
正津勉氏の書き下ろし「一切合財煙也」二十句より。見開きに並ぶ二十句は五句一束の構成。一束ごとに世界が創られており、七五調の音数律を抜け出した自由律の言葉が、すとんすとんと降りてきて、五七五に収まっているような風情。言葉たちにお帰りなさいと声をかけたくなる。
まひまひの句はなんと詠嘆の「や」が上五と下五に置かれており、俳句の定型としては驚きであるが、中七の「輪」を中心にぐるぐる回っているのだと合点した。終わりのないぐるぐる。なめくじの方は、のったりと進んで「は」の後はどこへ進むのかなめくじにもわからないのだ。
負うた殻を脱げない哀しみと身ひとつのやるせなさ、と私は人間の視点で読みつつ、かたつむりやなめくじから見た人間はどれほどの生き物なのだろう、と想像していた。そうか、視点遊びのおもしろさ。視点を変えれば「一切合財煙也」か、と考えさせるところが詩人の力である。
凡人のあとさきに降る桜蕊 川村研治
十薬を煎じ凡人生き延ぶや 栗原良子
凡人や手持無沙汰の金魚飼ふ 浅見 百
兼題「凡人」である。難しい題だと思った。日々を凡々と暮らしている私に、「これぞ凡人」という句を作れるものだろうかと思いつつ、五十名近い俳人の「凡人」の句を読んだ。それよりまず三句。
一句日、「あとさき」が巧い。天は凡人の上にも奇人の上にも桜蕊を降らす、とちょっと聖旬めいた慈しみを感じさせる「あとさき」だ。花吹雪ではなく桜蕊であるところがつつましい。
二句目の十薬を煎じるというのも、健康に気遣う凡人の行為として実にまっとうで、愛すべきではないか。人様の迷惑にならないようにぴんぴんころりを願う。
三句日、この金魚は夜店で釣ってしまったにちがいない。凡人が手持無沙汰に飼うわけだから、高級な銘柄金魚ではないと想像がつく。「凡人や」という詠嘆もなんというか、知らず知らずに息を漏らしてしまったような滑稽味がある。と、アイロニーを微かに漂わせる三句三様の愛しき凡人に、いたく親近感が湧いたのであった。
凡人に数へきれない落椿 岩淵喜代子
とても凡人とは思えないシーンに佇む凡人だが、そう感じることこそ凡である、ということか。数えきれない落椿が敷き詰められた舞台に立たせることで、作者はひとりの凡人の中のうかがい知れない非凡を浮かび上がらせているのだ。畢寛、人はひとりぞ、という普遍的な寂しさも感じさせる。
葱嶺の頂自麓青清水汲む 木佐梨乃
パミールはベルシャ語で「世界の屋根」という意味。そして中国語では葱嶺と呼ばれている中央アジアの高原。葱嶺とは、実際にこの地方に何百種という野生の葱が存在していることから名づけられたらしい。
仏教を葱嶺教というのは、釈迦が修行を行った地であるからという。そしてシルクロードの重要なルートでもあった。なんとも時空を超えて雄大な句だ。湧き流れる清水を汲む隊商のさざめきが聞こえてきそうだ。
ボート遊び中々岸に着かぬなり 兄部千達
溌刺と漕ぎ出したはいいけれど、ボートは慣れない人にとってはしんどい。そして倦みはじめてからが長いものだ。カップルで楽しんでいても漕ぐのに疲れて、だんだん無口に。とにかく岸に早く着きたいと願うが岸は遠い。「中々」に川か池の中ほどで、往生している心持がよくわかる。
くらげ生む地球と月の回転で 浜岡紀子
江の島水族館で大きな水槽に漂うくらげを見たときは、その神々しさに圧倒された。くらげは宇宙を感じさせるのだ。作者はその感覚を地球と月の回転が生む、というファンタジーにして見せてくれた。
アトリエを覗いてをりぬ羽抜鶏 宮本郁江
早熟の毛深き桃の手いれ時 伊丹竹野子
レトロな洋風建築のアトリエを、羽抜鶏が首を伸ばして覗いている。句自体が画材になりそうで楽しい一句目。そして毛深い桃とは、と一瞬とまどわせる二句目。どういう手入れをするのだろうと毛深い桃の映像があとを引く。