2016年10月 のアーカイブ

飯を焚く山の椿の満開に    高浦銘子

2016年10月31日 月曜日

女性でなくても主婦でなくても、飯を炊くという行為に関わらない人は少ない。例え、直接飯を炊くことに関わらなくても、毎朝湯気の立つご飯に出合っている人は、この句の初語に懐かしさを覚えるだろう。

単に飯を炊くという事項以上に、日常の中の折目のような、始まりのような気持ちが湧いてくるのである。そうして、(山の椿の満開に)の活気が飯を炊くことの活気と重ねられて、生命感を湧きたたすのである。

(高浦銘子第三句集 2016年 ふらんす堂『百の蝶』より。他に(押入れの中にも梅の香がとどく)(畳まれて目玉ばかりの鯉幟)(はなびらとおもえば蝶の流れゆ)など。

ひぐらしや水のようなる総本山   山田貴世

2016年10月28日 金曜日

俳句に関わっているものにとっては、総本山と言えば永平寺が浮かぶ。芭蕉の旅で外せないこの寺を(水のようなる)だとする措辞の他には、永平寺を言い表すことばは見当たらない。この修辞によって、みごとな総本山の全容が浮かび上がる。蝉の声は山形の山寺だが、総本山はひぐらしの声に蔽われていたのだろう。

「山田貴世第三句集『喜神』 2016年  東京四季出版」より。他に(桑の実や好きに歩いて風聴いて)(鹿鳴くや身ほとりの闇蒼みたり)(花八つ手てもと俄かに暗むかな)など。

冬麗のどうもどうもとゴリラ来る    今富節子

2016年10月28日 金曜日

(どうもどうもは)はゴリラの会話というよりは、ゴリラの姿がそのことばによって表現されている。たしかに、「どうもどうも」と頭を掻きつつ現れそうだ。そのゴリラの卑近さと冬麗という日和がゴリラに思惟的な品格を与えている。

「今富節子第二句集『目盛』  2016年  本阿弥書店」より。他に(梅咲くや一人と一人昼休み)(羊羹のやうな閂城の春)(ひとつかみ八百屋に田芹持たされし)など。

真実を追い越して行くかたつむり   前田霧人

2016年10月25日 火曜日

かたつむりが進む姿を想像しても、動いているのかいないのか解らないほどの遅々とした移動の姿しかない。それなのに、この句の蝸牛は意志を著わに、力強く突き進んでゆく。

真実を追い越した先にあるのは自由なのかもしれない。

他に(初蝶は海の底から生まれるんです)(水色の蝶空に舞い空になる実を追い越して行くかたつむり)(居酒屋の廊下に段差河童の忌)など。「前田霧人第二句集『レインボーズ エンド』 2016年 霧工房」より。

大学に育ちし零余子封筒に   森山いほこ

2016年10月19日 水曜日

句意を説明する必要もないほど、明快な世界が提示されている。誰もが一度くらいは、こんな経験をしているので、ことに懐かしい風景である。

そのなかでも、ころころとこぼれ易い零余子の幾粒かを封筒に入れる時の感触や音やらが懐かしく蘇る。

「森山いほこ第一句集『サラダバー』 2016年 朔出版」より。、

冬薔薇の束を抱きて九階へ
サラダバー横歩きして銀漢へ
秋茄子の皮を剥がせば渚色
春昼のバス待つやうに鱧を待つ

虫売の祖国も売つてしまいけり   瀬戸正洋

2016年10月19日 水曜日

虫売りから祖国へ続くところで、この祖国の存在、在り様が見えてくる。祖国は作者の故郷と同義なのではないかと思う。

目の前で売られている虫も同時に祖国を失ったかのように思えて、その声が哀れになる。極めて卑近な風景を詠んでいる句集のなかで、突然目の前に大海、あるいは高原といった視界のひろがりを感じる一句だった。

ほかに、「優曇華や朝昼晩と飯を食ひ」「雑炊に醤油垂らすや午前二時」など。「瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』2016年 邑書林」より。

ピアノ鳴る耳の中まで大枯野    鈴木多江子

2016年10月15日 土曜日

ピアノと枯野の取り合わせは、どこかにあるかも知れない。しかし、ここではその大枯野を大きい上にもさらに拡大して、聴覚の世界にまで響かせて果てしない枯野を描いている。

他に(憂ひとは大きすぎたる山椒魚)(太陽の白くなびけり初あらし)(麦秋や溺るるごとく旅に寝て)(秒針もまた長針も囀れり)など。鈴木多江子第二句集『鳥船』 2016年 ふらんす堂

りんりんと冬の木立に腕拡げ   九里順子

2016年10月12日 水曜日

前書きに「高村光太郎」とある。
この句のある章は「続・近代詩漫歩」というタイトルが置かれ、一句ごとに文学者の名前が付されている。

三多磨の百合にとどまる七年の時  (北村透谷)
梅の闇姉妹の中を川流れ  (島崎藤村)
花蔭に男子も袖を濡らすべし  (田山花袋)

と、こんな感じであるが、どの句もその前書きが無くても、印象的な絵画として爽やかである。さらに前書きによって、一句のイメージが奥深くなっている。例えば冒頭の句が、高村光太郎であることによって、智惠子の青空が重なり、光太郎の彫刻のような木立が見えて来る。面白い試みである。
九里順子第二句集『風景』 2016年 邑書林

にんん64号

2016年10月7日 金曜日

 

img_20161007_0001ようやく「ににん」発送のすべてが終った。次回の発送は新年号だから年末になる。新年号だから、当然表紙の絵も変わる。今年度は山内美代子さんの墨彩画から選んだが、言わなければ墨彩画だったとは思わない斬新さがあった。

表紙絵は、初期には街の絵を線描で……と拘っていたが、このところ、表紙のデザインを変更したので、真中に窓のような空間に置く絵に拘わりを持たなくてよくなった。「ににん」にも、いろいろな才能を持った人がいるので、順次紹介していきたい。

 

「澤」主宰・小澤實 2016年10月号より 

2016年10月5日 水曜日

窓 俳句結社誌を読む    筆者・馬場尚美

「ににん」2016年 夏号 vol 63号
「ににん」は平成十二年秋、埼玉県朝霞市にて岩淵喜代子が創刊。「同人誌の気概」ということを追求していきたいとある。師系は原裕。季刊。

まひまひやおのが輪脱げぬまひまひや   正津 勉
なめくじは負う家も無しなめくじは

正津勉氏の書き下ろし「一切合財煙也」二十句より。見開きに並ぶ二十句は五句一束の構成。一束ごとに世界が創られており、七五調の音数律を抜け出した自由律の言葉が、すとんすとんと降りてきて、五七五に収まっているような風情。言葉たちにお帰りなさいと声をかけたくなる。

まひまひの句はなんと詠嘆の「や」が上五と下五に置かれており、俳句の定型としては驚きであるが、中七の「輪」を中心にぐるぐる回っているのだと合点した。終わりのないぐるぐる。なめくじの方は、のったりと進んで「は」の後はどこへ進むのかなめくじにもわからないのだ。

負うた殻を脱げない哀しみと身ひとつのやるせなさ、と私は人間の視点で読みつつ、かたつむりやなめくじから見た人間はどれほどの生き物なのだろう、と想像していた。そうか、視点遊びのおもしろさ。視点を変えれば「一切合財煙也」か、と考えさせるところが詩人の力である。

凡人のあとさきに降る桜蕊      川村研治
十薬を煎じ凡人生き延ぶや      栗原良子
凡人や手持無沙汰の金魚飼ふ     浅見 百

兼題「凡人」である。難しい題だと思った。日々を凡々と暮らしている私に、「これぞ凡人」という句を作れるものだろうかと思いつつ、五十名近い俳人の「凡人」の句を読んだ。それよりまず三句。

一句日、「あとさき」が巧い。天は凡人の上にも奇人の上にも桜蕊を降らす、とちょっと聖旬めいた慈しみを感じさせる「あとさき」だ。花吹雪ではなく桜蕊であるところがつつましい。
二句目の十薬を煎じるというのも、健康に気遣う凡人の行為として実にまっとうで、愛すべきではないか。人様の迷惑にならないようにぴんぴんころりを願う。

三句日、この金魚は夜店で釣ってしまったにちがいない。凡人が手持無沙汰に飼うわけだから、高級な銘柄金魚ではないと想像がつく。「凡人や」という詠嘆もなんというか、知らず知らずに息を漏らしてしまったような滑稽味がある。と、アイロニーを微かに漂わせる三句三様の愛しき凡人に、いたく親近感が湧いたのであった。

凡人に数へきれない落椿       岩淵喜代子

とても凡人とは思えないシーンに佇む凡人だが、そう感じることこそ凡である、ということか。数えきれない落椿が敷き詰められた舞台に立たせることで、作者はひとりの凡人の中のうかがい知れない非凡を浮かび上がらせているのだ。畢寛、人はひとりぞ、という普遍的な寂しさも感じさせる。

葱嶺の頂自麓青清水汲む      木佐梨乃

パミールはベルシャ語で「世界の屋根」という意味。そして中国語では葱嶺と呼ばれている中央アジアの高原。葱嶺とは、実際にこの地方に何百種という野生の葱が存在していることから名づけられたらしい。

仏教を葱嶺教というのは、釈迦が修行を行った地であるからという。そしてシルクロードの重要なルートでもあった。なんとも時空を超えて雄大な句だ。湧き流れる清水を汲む隊商のさざめきが聞こえてきそうだ。

ボート遊び中々岸に着かぬなり    兄部千達

溌刺と漕ぎ出したはいいけれど、ボートは慣れない人にとってはしんどい。そして倦みはじめてからが長いものだ。カップルで楽しんでいても漕ぐのに疲れて、だんだん無口に。とにかく岸に早く着きたいと願うが岸は遠い。「中々」に川か池の中ほどで、往生している心持がよくわかる。

くらげ生む地球と月の回転で     浜岡紀子

江の島水族館で大きな水槽に漂うくらげを見たときは、その神々しさに圧倒された。くらげは宇宙を感じさせるのだ。作者はその感覚を地球と月の回転が生む、というファンタジーにして見せてくれた。

アトリエを覗いてをりぬ羽抜鶏    宮本郁江
早熟の毛深き桃の手いれ時      伊丹竹野子

レトロな洋風建築のアトリエを、羽抜鶏が首を伸ばして覗いている。句自体が画材になりそうで楽しい一句目。そして毛深い桃とは、と一瞬とまどわせる二句目。どういう手入れをするのだろうと毛深い桃の映像があとを引く。

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