俳句に関わっているものにとっては、総本山と言えば永平寺が浮かぶ。芭蕉の旅で外せないこの寺を(水のようなる)だとする措辞の他には、永平寺を言い表すことばは見当たらない。この修辞によって、みごとな総本山の全容が浮かび上がる。蝉の声は山形の山寺だが、総本山はひぐらしの声に蔽われていたのだろう。
「山田貴世第三句集『喜神』 2016年 東京四季出版」より。他に(桑の実や好きに歩いて風聴いて)(鹿鳴くや身ほとりの闇蒼みたり)(花八つ手てもと俄かに暗むかな)など。
俳句に関わっているものにとっては、総本山と言えば永平寺が浮かぶ。芭蕉の旅で外せないこの寺を(水のようなる)だとする措辞の他には、永平寺を言い表すことばは見当たらない。この修辞によって、みごとな総本山の全容が浮かび上がる。蝉の声は山形の山寺だが、総本山はひぐらしの声に蔽われていたのだろう。
「山田貴世第三句集『喜神』 2016年 東京四季出版」より。他に(桑の実や好きに歩いて風聴いて)(鹿鳴くや身ほとりの闇蒼みたり)(花八つ手てもと俄かに暗むかな)など。
(どうもどうもは)はゴリラの会話というよりは、ゴリラの姿がそのことばによって表現されている。たしかに、「どうもどうも」と頭を掻きつつ現れそうだ。そのゴリラの卑近さと冬麗という日和がゴリラに思惟的な品格を与えている。
「今富節子第二句集『目盛』 2016年 本阿弥書店」より。他に(梅咲くや一人と一人昼休み)(羊羹のやうな閂城の春)(ひとつかみ八百屋に田芹持たされし)など。
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