2011年11月 のアーカイブ

『花暦』12月号 主宰・舘岡沙緻

2011年11月25日 金曜日

俳誌展望          筆者 野村えつ子

ににん 2011年夏号季刊  

□ににん集より
独活大木鬼も独りになるときか     岩淵喜代子
ジャズピアノ独身貴族といふ日焼け  長嶺千晶
夏雲溶けて坦々と独走者        木津直人
罹災後の独り吟行てふ五月       栗原良子
夏の旅果て辿りつく吾が独居      四宮暁子
橋詰のカフェに独りの夏の雨      武井伸子
小豆島独り咳く人心澄む         中村善枝

□さざん集より
冬あかねカフェテラスからチェロの音   中島外男
やすやすと揺るるつり橋青嵐       服部さやか
ひたひたと月の波動や橋涼し       浜田はるみ
基地巡る夾竹桃も核の傘         伊丹竹野子
花人にざらざら風の吹いて来る      尾崎じゅん木
街なかに船鎮座する啄木忌        須賀 薊
蕗昧増や母の背にある陽の温み    牧野洋子

 平成十二年、朝霞市にて岩淵喜代子氏により創刊。理念は「同人誌の気概ということを追求していきたい」。詩人清水哲夫氏の巻頭言「震災詩歌」は自省なき震災詩歌作品群への失望と訴えです。連戦評論は昭和初年代の草田男を論じた長嶺氏の「降る雪や、そして結婚」、寡筆だった石鼎の生活を辿る岩淵氏の「手簡自叙伝」、茂吉の〈一本道〉の綿密な読みで本質に迫る詩人田中庸介氏の「道あかあかと」、歩く人であった碧梧桐の他界までを詳述した詩人正津勉氏の「引退から急逝へ」といずれも力の籠った内容です。武井氏の掌編小説を思わせる随筆「俳句の風景」、四宮氏の連載震災地の救援活動記もあり本誌の密度の高さが感じられました。

『天塚』11月号 主宰木田千女   

2011年11月12日 土曜日

現代俳句鑑賞  竹村良三

  紫陽花に嗚呼と赤子の立ち上がる    岩淵喜代子
  大花野越えきて襁褓まだとれぬ

 たまたま「俳句」九月号に赤ん坊を詠った句が並んでいたので一括して取り上げた。いずれの句も、子の成長見守る母の句であるが、底に人間愛が流れている。第一句(短夜の赤子よもつともつと泣け)は赤子の将来を祝福いるのだ。第二句、子はその期待に応えるかのように(海を見たまま)すでに遠い将来を見据えているのである。第三句、第四句、ここでは自然の美、いや人間愛がわかるまでに成長した赤子が詠まれている。(紫陽花)(大花野)の季語が生き生きと赤子の様子を伝える。(襁褓まだとれぬ)は(這えば立て立てば歩めの親心)なのだ。

『天為』 11月号 主宰有馬朗人

2011年11月12日 土曜日

現代俳句鑑賞        筆者五十嵐義知

 涼風の通ふところに集合す    岩淵喜代子

水面を吹きぬけてくるのか、打水のあとを吹く風か、涼風の通るところがある。あるいは冷房の自動ドアーの付近かもしれない。暑さのために自然にその場所が待ち合わせ場所、集合場所となってしまったのである。建物の影にかくれるように信号待ちをしている光景も、涼風の通る場所とは異なるかもしれないが、日差しを避けるために自然にそのようになるのである。

『雲』11月号・主宰 鳥居三朗

2011年11月11日 金曜日

俳句の窓  筆者 赤井子魯

折鶴に息を吹き込む夏休み  「俳句」九月号    岩淵喜代子

 折鶴は、ただ折って終わりということはなくて、息を吹き込んで初めて完成する。そのことを思い出させてくれた。広島忌、長崎忌と夏休みは折鶴に縁が深い季節だが、今年はさらに三月十一日の出来事が加わった。さりげない表現の中から、深い思いが伝わる。

『門』・主宰 鈴木鷹夫  11月号

2011年11月11日 金曜日

現代俳句月評    筆者   長 浜 勤

  地獄とは石榴の中のやうなもの  岩淵喜代子  「俳句」九月号

 農家の庭先などに昔からあるものが石榴であろう。晩秋になると、不規則に割れた実から数多の赤い実が現れる。強い個性にひかれて絵筆をとりたくなることがある。中国などでは子孫繁栄を願って植えられたというが日本の場合は実を食べるための目的だろうか。勤務先の学校にも石榴があるが誰に聞いてもこの樹木を植えた理由がわからない。教師の目を盗んで食べる生徒もいるから面白い。中国から日本に伝わったのは十世紀だというが、もう少し早いのかもしれない。
 柘榴の味はその見た目と同じようにくせがある。人肉に似た味がするとも言われる。他人の子を食う鬼子母神は自分の末子を仏に隠されて改心したという話がある。このことから柘榴は子を守る魔除けとしている地域もある。さて、地獄とは柘榴の中というのは、強い言葉の組み合わせだ。地獄の苦しみが一粒づつの柘榴の実であるようにも鑑賞でき、実の割れ方も尋常ではないところに納得した。

『春耕』・主宰・棚山波朗 創刊45周年記念号 10月号

2011年11月11日 金曜日

鑑賞「現代の俳句」    筆者  蟇目良雨

  地獄とは柘榴の中のやうなもの 岩淵喜代子   「俳句」9月号

 天国と地獄、地獄と極楽など表現は違うにせよ洋の東西を問わず人の心の中に地獄はあるようだ。心の中と言ったのは誰も見たことが無いからである。想像でも地獄という概念を考え出した人間は罪深いと思う。人も草本鳥獣と同にとする考えからスタートすれば生と死も何の疑問を持つことなく受け入れ、天災人災を受けたとしても天国やら地獄やらを考えなくても済むはず。地獄もあるぞと脅して天国や極楽という飴玉を見せ付けているのだと思う。
 さて揚句であるが裂けた柘榴の中を見ると確かに地獄のようにも見える。地獄はそんなものじゃないという声も聞えてきそうだが、その人はその見える形を提示すればいい。私には印象鮮明な句に思えた。

『空』10月号・主宰 柴田佐知子

2011年11月11日 金曜日

俳句展望 筆者 高倉和子

   地獄とは柘榴の中のやうなもの      「俳句」九月号  

 熟してぱっくりと裂けた柘榴に一瞬にして地獄を感じた感覚は鋭い。びっしりと並ぶ実の色は鮮烈な赤い色であり、血や炎の色を連想させる。
柘榴には鬼子母神の拙話があり、人間の子供を食べる鬼子母神を釈迦が諭し人肉の替わりに食べるように与えたという。この拙話を超えて地獄と言い切る作者の思い切りの良さに感服した。

『麻』10月号 ・主宰 嶋田麻紀

2011年11月11日 金曜日

現代俳句月評             筆者 川島一紀

  地獄とは柘榴の中のやうなもの   「俳句」九月号

柘榴の実の中は鮮紅色のルビーのような珠玉が詰っている。これは、多数の種が纏っている外種皮である。ぬめぬめした紅玉が立錐の余地の無いように犇めき合っている。ある意味では、種がのたうつ赤い地獄のようでもあると感じる。

武田肇第五句集『二つの封印の書 二重フーガのための』2011年 銅林社

2011年11月10日 木曜日

この一書は表紙にアーデルハイトの封印』とあり裏表紙には『エーリスの封印』とある。そうして奥付には『二つの封印の書 二重フーガのための』とある。詩人武田氏が編む句集はただ一句一句をは積み重ねていくのではなく、意識的に編み、意識的に積み重ねた句集ということだ。一年間の作品を四つのムーブベント–「冬至祭」「アリスの相圖」「秋深し」「異言」–に分けている。とは言っても、読む側にその素養がないので、一句一句を独立して読むことになる。

木の股に冬至の音を聴いてをり  
ねえさんと呼んでみたきは初氷
夕焼や一高櫓に一看守
噴水の乾かばにほひ暮の秋
秋止めて塀のあつまる町目界

有住洋子著『閾』  2011年 文芸社刊

2011年11月10日 木曜日

 一見エッセイのようだが、これはあきらかに詩集である。一章ごとのタイトルも全て漢字一文字「界・翳・条・像・皮・片・残・綾・層・経・緯・覚」となり、すでに抽象的な匂いがしてくる。一章目は「界」は子守歌が聞こえてきてそこから思い出す風景を綴ってゆく。そこから立ち上がる映像はあくまで確とは輪郭を現実には引き寄せない。言ってみれば夢の出来事を後追いで再現しているのである。この傾向は最後まで及んで、不思議な陰影を作りだしている。

 タイトルの一つ「緯」は「い」と読むのだろう。緯とは織物の横糸、あるいは東西の方向の意味。「死ぬ時は霧が流れている」から始まる文体は折口信夫の「死者の書」を思い出させる。ところで、著書のタイトル『閾』は(いき)(しきい)と読む。あきらかに本文の詩の一章ごとのタイトルを統べる総タイトルなのである。しきいは外と内を仕切る場所。それは家のしきいであり、生死の境をも象徴しているのだと思う。作者に『残像』という好評を得た句集がある。「琉同人」

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