2011年11月11日 のアーカイブ

『雲』11月号・主宰 鳥居三朗

2011年11月11日 金曜日

俳句の窓  筆者 赤井子魯

折鶴に息を吹き込む夏休み  「俳句」九月号    岩淵喜代子

 折鶴は、ただ折って終わりということはなくて、息を吹き込んで初めて完成する。そのことを思い出させてくれた。広島忌、長崎忌と夏休みは折鶴に縁が深い季節だが、今年はさらに三月十一日の出来事が加わった。さりげない表現の中から、深い思いが伝わる。

『門』・主宰 鈴木鷹夫  11月号

2011年11月11日 金曜日

現代俳句月評    筆者   長 浜 勤

  地獄とは石榴の中のやうなもの  岩淵喜代子  「俳句」九月号

 農家の庭先などに昔からあるものが石榴であろう。晩秋になると、不規則に割れた実から数多の赤い実が現れる。強い個性にひかれて絵筆をとりたくなることがある。中国などでは子孫繁栄を願って植えられたというが日本の場合は実を食べるための目的だろうか。勤務先の学校にも石榴があるが誰に聞いてもこの樹木を植えた理由がわからない。教師の目を盗んで食べる生徒もいるから面白い。中国から日本に伝わったのは十世紀だというが、もう少し早いのかもしれない。
 柘榴の味はその見た目と同じようにくせがある。人肉に似た味がするとも言われる。他人の子を食う鬼子母神は自分の末子を仏に隠されて改心したという話がある。このことから柘榴は子を守る魔除けとしている地域もある。さて、地獄とは柘榴の中というのは、強い言葉の組み合わせだ。地獄の苦しみが一粒づつの柘榴の実であるようにも鑑賞でき、実の割れ方も尋常ではないところに納得した。

『春耕』・主宰・棚山波朗 創刊45周年記念号 10月号

2011年11月11日 金曜日

鑑賞「現代の俳句」    筆者  蟇目良雨

  地獄とは柘榴の中のやうなもの 岩淵喜代子   「俳句」9月号

 天国と地獄、地獄と極楽など表現は違うにせよ洋の東西を問わず人の心の中に地獄はあるようだ。心の中と言ったのは誰も見たことが無いからである。想像でも地獄という概念を考え出した人間は罪深いと思う。人も草本鳥獣と同にとする考えからスタートすれば生と死も何の疑問を持つことなく受け入れ、天災人災を受けたとしても天国やら地獄やらを考えなくても済むはず。地獄もあるぞと脅して天国や極楽という飴玉を見せ付けているのだと思う。
 さて揚句であるが裂けた柘榴の中を見ると確かに地獄のようにも見える。地獄はそんなものじゃないという声も聞えてきそうだが、その人はその見える形を提示すればいい。私には印象鮮明な句に思えた。

『空』10月号・主宰 柴田佐知子

2011年11月11日 金曜日

俳句展望 筆者 高倉和子

   地獄とは柘榴の中のやうなもの      「俳句」九月号  

 熟してぱっくりと裂けた柘榴に一瞬にして地獄を感じた感覚は鋭い。びっしりと並ぶ実の色は鮮烈な赤い色であり、血や炎の色を連想させる。
柘榴には鬼子母神の拙話があり、人間の子供を食べる鬼子母神を釈迦が諭し人肉の替わりに食べるように与えたという。この拙話を超えて地獄と言い切る作者の思い切りの良さに感服した。

『麻』10月号 ・主宰 嶋田麻紀

2011年11月11日 金曜日

現代俳句月評             筆者 川島一紀

  地獄とは柘榴の中のやうなもの   「俳句」九月号

柘榴の実の中は鮮紅色のルビーのような珠玉が詰っている。これは、多数の種が纏っている外種皮である。ぬめぬめした紅玉が立錐の余地の無いように犇めき合っている。ある意味では、種がのたうつ赤い地獄のようでもあると感じる。

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