2013年10月 のアーカイブ

誕生日がきた

2013年10月26日 土曜日

10月23日は私の誕生日だ。
誰も言い出さなくてしめしめと思っていたら、スポーツクラブのインストラクターが覚えていた。
この年齢になると、死亡通知も多い。特別なご縁があったというわけではないが、村上護さんは六月末になくなった。それから半月後の海の日に私の俳句の鑑賞された新聞が送られてきた。
村上さんの鑑賞したものだ。多分亡くなる直前までお仕事をしていたのだなーと察した。
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久しく会わなかった竹村さんのご家族からのお知らせが来た。

赤坂で料亭を営んでいた竹村さんは、私の時間感覚でいえば3倍以上の密度の濃い人生を送ってきた方だ。なにしろ深夜までになる料亭を営みながら、書道も日本刺繍も生け花も瞠目する深入りの仕方である。それに加えて俳句も長い年月関わってきた。私はその俳句つながりだったが、刺繍展にも生け花展にも書道展にも馳せ参じた。

木村伊兵衛の写真集「昭和の女たち」にも登場していた。昭和の働く女性たちの写真集だから、大方は名も無い人たちだが、大阪の本店「しる芳」で、昭和29年にはすでに店に出ていたようだ。支店である赤坂「しる芳」には数え切れないほど立ち寄らせて貰ったが、現在はもう閉店している。
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詩人飯島耕一氏が 14日に死去。というニュースを25日の新聞で見た。
飯島耕一という詩人を意識したのは『日本のベル・エポック』を発表したあたりだったろうか。その後、同じ明大の教授であった川崎展宏氏の縁で、ご一緒に一日鎌倉を歩いたことがあった。句会をして、それからまた新宿まで戻ってきてボルガで飲んだ。まだ川崎展宏氏が貂を立ち上げて間もない頃で、お互いに若かった。

お目にかかったのはその一回だけだったが、背丈が高いわけではなかったが、男っぽい四角い体格で、展宏氏とは逆の印象で受け止めた。年齢的にも展宏氏よりは若かったのではないかと思っている。そのボルガで、幾たびか川崎展宏氏をけしかけていた。何をと問われても記憶が薄れてしまっているが、とにかくこのままではいけない。前へ進めというようなことだったと記憶している。

その川崎展宏氏ももうすでに他界している。今頃はあちらの世界で大声で口角泡を飛ばす論を戦わせあっていることだろう。
それぞれの方の、ご冥福を祈りたい。

Windows8・パソコンが壊れた

2013年10月25日 金曜日

パソコンが壊れてしまった。ちょっと不具合いがあるというのではなく、全く使用不能になってしまったので、朝、何をさて置いてもPCデポに駆けつけた。結果、すぐには直らない故障でメーカーに送るので、かなりの日にちがかかるという。もう。

パソコンは私にとって大方はワードを使用するためにある。それも横書きではなく縦書きで入力していきたいので、画面がより大きな方が使いやすい。しかし、こうして故障などというときには、持ち運びには重たくて苦労する。それは、新しい機能習得のためにマイ・パソコンを持ち込むときにのもだ。

やっとXPからwindoows7に慣れたところだったが、やはり今の大きさで軽いのがあれば買い変えてもいいかな、と思いながら店内を見回した。値段が年々安くなっているのに吃驚。

現在使用中のも、まだ4年くらいしか使っていないが、現在はもう新機種windoows8である。これはwindoows7とほぼ変わらない。変わるのはスタート画面が違うらしい。それでは入り口がみつからなくてうろうろするのではないかなーと思っていると、希望すればその機能を追加してくれるという。

そうしてなんとなんと、アイホーンを購入すればパソコンが割引きになり、しかも、なお数万円のポイントがつくので、パソコンがただ同然になるのである。なんだかわけの分からない事態であるが、それなら中身を引き出して新しいパソコンに移動するだけでいいので、早くパソコンが手に入る。

ということで、デスクトップは同じ大きさで、以前よりは少し軽いパソコンに乗り換えることにした。まーアイホーンを使いこなすのにはかなり難儀をするのではないかということは覚悟の上でだが。

俳句燦燦 

2013年10月22日 火曜日

『天為』2013年10月号

現代俳句鑑賞   筆者・内田恭子

    今日もまた清水立口なく盛り上がる    岩淵喜代子
                       (「俳句四季」八月号)

 山中の清水は、岩肌を伝うのではなく水底から湧いているものも多い。透明に湛えられた水をじっと見ていると、水底の砂や小石を巻き上げてそこに水中噴水とでもいうような対流が出来ているのがわかる。ただ、水面を出るほどの勢いではないので、水面がゼリー状に見えるように「盛り上がる」のだ。そんな小さな清水が時に大河のはじまりであったりする。
 水はもちろん、句の透明度が高い。
    
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ランブル2013年10月号

現代俳句鑑賞22   筆者今野好江

 
    梅雨茸つひにひとりがペンで刺す   岩淵喜代子
                     『俳句』八月号 

 湿気の多い梅雨どきに生える梅雨茸。食べられるものもあるが殆ど毒きのこである。 樹の下や庭隅などに生える梅雨茸は陰気な感じがする。上田五千石の句に

  鉛筆で火蛾の屍除くる貧詩人    五千石

 があるが、何か気色の悪いものに出会った時、人は見過すことが出来ない性がある。
  陰鬱なてらてらした梅雨茸を見た人が思わずペン先で突いてしまった。 傍観者たる作者の諧謔を弄した一句。
 
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『氷室』2013年10月号  

 新・現代俳句鑑賞   筆者・大島幸男

 
    梅雨茸つひにひとりがペンで刺す  岩淵喜代子
                    「俳句」八月号 
       
 吟行会場は、由緒はあるものの、参拝者のほとんどない田舎の神社である。だから裏手に廻れば、手入れのされていない林には、落葉や倒木が雑然として、雨上がりの茸が処々に伸びている。とりわけ巨大な茸を一同取巻き、あれこれと談義をするが、名前もわからない。「 毒かも知れないから触らないで」という声にもめげない一人がペンで突いて倒し、ついには突刺さして高々と持ち上げた。みんなの視線は茸に釘付けなのである。
 懐かしいコメディー映画を見るような喧しい様子が楽しい。

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『田』2013年10月号    

 俳句月評  色色     筆者・栗山政子

   天道虫見てゐるうちは飛ばぬなり  岩淵喜代子
                   「俳句」八月号より

 昆虫の多くは、人の近づく気配がしただけで逃げてしまう。
 その点、天道虫は人が近くにいても、すぐには飛ばない。トンボのように羽がはっきり見えない天道虫は、どうやって飛ぶのだろうか。 じっと見ている。でも飛ばない。掲出句を読み返すと、天道虫が眼前に現れてくる。飛ぶ瞬間を見てみたくなる。
 体の表面に光沢のある天道虫は前翅を割って、下にたたみこまれた薄い後翅を広げて飛ぶのだが、この翅がけっこう長い。
 太陽(天道)へ向かって飛んでゆくから、天道虫と呼ばれるそうである。
〈指わつててんたう虫の飛びいづる 高野素十〉

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『松の花』 2013月10月号

現代俳句管見 総合誌より  筆者 平田雄公子

    天道虫見てゐるうちは飛ばぬなり    岩淵喜代子
                      「俳句」8月号

天道虫」は、見掛以上に強かな昆虫かも。見られて「ゐるうちは」不活発なのに、目を離すと逃げるのだ。

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狩』2013年11月号

秀句探索   筆者森本秀樹

     教室のうしろの黒板梅雨長し     岩淵喜代子

 「俳句」8月号より。意表をつく作品である。そういえば学生のころ、各教室の後ろに黒板があったのを思い出した。週間予定表などが書かれていたような気がする。朝から梅雨の雨がしとしと降っている。生徒は一斉に「まえ」の黒板を見つめ、先生の講義に聴き入っている。時折視野に入るのは、長梅雨の窓の外と、廊下の前の出入口くらいではなかろうか。
 掲句は、まったく視野に入らない「うしろの黒板」に注目。長梅雨が外のみならず、教室全体にまで影響を及ぼしていることを示唆している。

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『雲取』2013年11月号

現代俳句管見        下條杜志子

    真ん中に火鉢置かるる花疲れ    岩淵喜代子
                   (「ににん」夏号)

 暮らしの、部屋の、調度の主のような火鉢であったが、役目を終えて消えつつある。炭火や練炭、炭団も同様だろうか。この句、上五から察するにお連れがありそうな。そして下五からは花冷えか花の雨の中を少々お疲れ気味に来られたと思われる。火鉢の火がそれらを全部集約してほのぼのと赤く、花を愛でた疲れに、僅かな火の色の呼応が美しい。

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『森』2013年10月号    

俳句への思い四   筆者・五十嵐修

    火の中に火の芯見ゆる桜の夜   岩淵喜代子
                『ににん』夏号

 この桜の夜の火は何であろう。その詮索はさておき、生きている大の力や匂い、それに重ささえ感じさせ、胸奥に導き、句は独特のリアリティを備える。
 この火はまた過度の文明化によって起こった戦争などの争いや原発事故などと潜在的なところで地続きなのでは。
 探し当てた火の中に見える芯とは過剰な表現かなとも思えるが、日本人の鋭敏な直感にも適って時代と社会の陰影を増幅しているのが伝わり、忘れることなく歴史にも目を向けよと訴えている。読めば読むほどそう思えてくる。

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『春野』 20113年10月号現代俳句鑑賞 --五感を通して

     椎匂ふ闇の中より闇を見る    岩淵喜代子
                  (俳句四季 8月号より)
 神社・寺院には樹齢四、五百年と言われる椎の木があるのは珍しくはない。淡黄色の小花をびっしりとつけ噎せかえるような香を放つ。一句の中に闇と言う辞句をくり返した音調が印象的である。最初の闇は眼前の闇、あとの闇は無窮であると思えば、この世と、かの世をつないでいるのは椎の香りであろうか。
草も木もしんと呼吸を止めているような大気の澄みに椎の花はほろほろと散る。

『澤』2013年10月号

2013年10月22日 火曜日

「窓」俳書を読む      筆者 田沼和美

岩淵喜代子句集『白雁』

 岩淵喜代子さんは一九三六年東京生まれ。一九七六年「鹿火屋」入会、原裕に師事。後に川崎展宏主宰の「詔」創刊に参加。二〇〇〇年同人誌「ににん」創刊。

  或る蟻は金欄緞子曳きゆけり

 金欄緞子という言葉は「金欄緞子の帯しめながら」という歌詞でしか聞いたことがなかった。「キンラン」「ドンス」という響きからしてもう素晴らしく豪華そうだ。
 蟻が運ぶのは昆虫の残骸。ところが、その中の一匹が「金欄緞子」を運んでいる。揚羽蝶や玉虫のような、きらびやかな残骸。残酷な美しさだ。

  地中には蟻の楼閣障子貼る

 蟻の句をもう一つ。地中にはきっと見事な蟻の巣があって、それを「楼閣」と表現しているところがツボ。蟻も冬の備えをして楼閣を万全に整えているのだ、と想像する。

  独りづつ雛に顔を見せにけり

 楽しくてちょっと不気味。客が一人一人雛人形に近づいては顔を眺めるのだが、それはまるで人形に顔を見せているかのよう。人形と人間が顔をつき合わせる。人形だと思うからぶしつけに顔を見つめるが、逆に人形にも見られている、と思うと楽しい句が不気味な句に思えてくる。

  花冷えや裏返しても魚の顔

 これも面白不気味な感じを受けた。哺乳類は正面に顔があって、裏返せば後頭部だ。しかし、魚は裏返したらまた顔があるのだ。たしかにそう。魚は横顔しかないから。

  月光の仔猫は凪め尽されてをり

 親猫が仔猫をすみずみまで砥めてきれいにする。親が面倒を見ているくらいの幼く可憐な仔猫だ。月光を浴びてますます可憐。ところで、猫に月が似合うことといったら。

齊藤朝比古第一句集『累日』   2013年9月   角川書店

2013年10月13日 日曜日

好感のを持つ句集というのは、この『累日』のような作品集を指すのだろう。石寒太氏は――普通のさりげない内容が、詠み込まれてみて、はじめて、なるほどこんなことをこんな風に詠んだ人はいなかったな、と気づかされる―ーと言っている。
たとえば

  やはらかきところは濡れてかたつむり

といった句はそう言われてはじめて俳句の詠み方を知ったような気になる。
一集はそうした句の連続である。もっとも、この句集は何回となく挑戦した俳句研究の応募の集積でもあるわけだから纏めるには膨大な捨てる句があったと思うのである。

  サングラス砂を払ひて砂に置く
  籠枕きしきし鳴いて定まれり
  熱きもの持つやうな指祭笛
  遠泳の水平線を抱かんとす
  父母は金魚の部屋に座りゐし
  睡るとき外す眼鏡や螽斯
  全員が十七歳や夏講座
  ひとつづつ影を増やして雛飾る
  青空の雫集めて氷柱かな

加古宗也句第四句集『雲雀野』  2013年九月  本阿弥書店

2013年10月13日 日曜日

冬ぬくしとは金堂のべんがら戸
むかごたつぷり茹で上げてあり朱泥鉢
逃げ水を追ひきて海の紺に着く
くちなしの香に風呂敷を解きけり
八雲忌の束ねてありし菊の花
東大寺山門に立つ孕鹿
冬瓜のいつもごろごろしゐいたり

俳味を映像的に詠みあげたことに魅力が発揮されている。
たとえば冬瓜のあり様にしても、見るときにはいつもごろごろしているという発見に滲む俳味などは、句集中の秀逸だと思う。

受贈 評論著書

2013年10月11日 金曜日

恩田侑布子『余白の祭』 
        畳みかけてゆく言葉の、
        なんという回転の速さ、  
        切れの味のよさ(芳賀徹)   2013年3月    深夜叢書

          
岩岡中正『子規と現代』
      子規への回帰を通して、
      日本近代を再構築を展望する     2013年3月    ふらんす堂

斎藤眞爾『周五郎伝 虚空巡礼』         2013年5月    白水社

筑紫磐井『21世紀俳句時評』          2013年6月    俳句四季文庫25

松村多美『季語めぐり』             2013年6月     北溟社
松村多美『野沢節子ひたすらのいのち』      2013年6月     

『寂聴詩歌伝』(瀬戸内寂聴・斎藤眞爾対談集)  2013年8月    本阿弥書店

『俳句上達9つのコツ』    2013年9月    NHK出版

長嶺千晶『今も沖には未来あり』
        ――中村草田男句集「長子」の世界  2013年9月    本阿弥書店

星野恒彦『俳句・ハイク――世界をのみ込む誌型』   2013年10月    本阿弥書店

零余子

2013年10月9日 水曜日

131007_0832 二階の窓から見下ろしていたら、柿の木をよじ登っている蔓草に実のようなもの。零余子が成っていた。すっかり忘れたていたが昨年、庭に撒いておいたのである。もっと早くに気がついて、適当な支えを作っておけば、柿の木の高いところまで這い上らせなくてもよかったのである。

手の届くあたりの零余子を採ってきた。そのあと二階から椿の木の上を這っているもう一本の蔓を発見。しかし、引っ張って手元に寄せてきたときには大方の零余子はどこかに落ちてしまっていた。というわけで、僅かな収穫だが零余子飯に使うくらいにはなりそうである。

観測史上初の高温日だとかいうが、秋は確実にやって来ていた。零余子だけではなく、金木犀は手で掬いあげられるくらいの落花を零しているし、黒目川の土手は萱がびっしり。今日の強風になびいていた。

ご壮健な方々

2013年10月8日 火曜日

 先日、深夜叢書創立五十周年祝賀会で瀬戸内寂聴さんのご壮健振りに目を見張ったが、今日は85歳のジャンヌ・モロー主演の「クロワッサンで朝食を」を観てきた。この女優の映画を以前に見たのは「デュラス 愛の最終章」だったが、あれから5年くらい経っているだろうか。
 老いることに駄々をこねているようなフリーダとかっての恋人だったステフアン。そのステフアンがやっと探したメイドのアンヌ。映画は、ともすれば人生の終焉のべたつきを見せてしまいそうな物語である。それを誇りと自我を持つ、それぞれの人物によって、深遠な人生が紡がれている。

 帰りの電車の中で、携帯にメールが入っていた。「ににん」をありがとうというものだったが、そのあとに、体調が回復したので、一緒に麻布本村町へ行ってもいいですよ、と書いてある。以前石鼎評伝を書いているときにお世話になったAさんからだ。この方も大正十四年生まれで、今年九十歳くらいの方である。実は「頂上の石鼎」を書くにあたって、石鼎が神奈川県の二宮に移るまで住んでいた麻布本村町の探索にご一緒していただいた方である。

 その後、ある一文から思っていた場所が少しずれているのではないかと、Aさんに手紙を書いておいた。そのとき、手術をしてまだ外出はできないが、回復したらもう一度歩いてみるというお返事を頂いていた。
 高齢でもあるし、もうご一緒に歩くの無理ではないかと思っていたので、メールが来たことに吃驚した。本来なら十月にこんな暑い日はないのに、今日は真夏のような気温、それが数日続くという予報が出ている。それで、来週になったら涼しくなりそうなので、また連絡を入れます、というお返事をしておいた。私もすでに後期高齢者だが、それよりはるかに高齢の方たちに元気付けられるような気がしている。

角谷昌子第三句集『地下水脈』  2013年9月 角川書店

2013年10月5日 土曜日

黒揚羽地下水脈を慕ひをる

精力的に作家論を紡いでいる書き手としての分野でも知名度をもった作家である。
そうした論者の俳句でもある。それが表題にした「地下水脈」の句にも濃く表れている。ときをり地面にたくさんの蝶が張り付いていることがある。水面ではなくただ周囲よりは湿りのあるような地上にである。地下水脈、そういう措辞によって黒揚羽の輪郭が引き出されるだけではなく不思議な立体感が現れる。それは作者の希求の表れでもあるのだろう。後半にいくほど言葉が自在になっている。

はんざきの尾は常闇に垂れてをり
絵タイルの船をつつけり初雀
穴まどひ尾に波音を曳きにけり
落椿大地波打つことのあり
蔦紅葉百夜通ひのやつれとや
一塊の闇はふくろふ発ちにけり

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