誕生日がきた

10月23日は私の誕生日だ。
誰も言い出さなくてしめしめと思っていたら、スポーツクラブのインストラクターが覚えていた。
この年齢になると、死亡通知も多い。特別なご縁があったというわけではないが、村上護さんは六月末になくなった。それから半月後の海の日に私の俳句の鑑賞された新聞が送られてきた。
村上さんの鑑賞したものだ。多分亡くなる直前までお仕事をしていたのだなーと察した。
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久しく会わなかった竹村さんのご家族からのお知らせが来た。

赤坂で料亭を営んでいた竹村さんは、私の時間感覚でいえば3倍以上の密度の濃い人生を送ってきた方だ。なにしろ深夜までになる料亭を営みながら、書道も日本刺繍も生け花も瞠目する深入りの仕方である。それに加えて俳句も長い年月関わってきた。私はその俳句つながりだったが、刺繍展にも生け花展にも書道展にも馳せ参じた。

木村伊兵衛の写真集「昭和の女たち」にも登場していた。昭和の働く女性たちの写真集だから、大方は名も無い人たちだが、大阪の本店「しる芳」で、昭和29年にはすでに店に出ていたようだ。支店である赤坂「しる芳」には数え切れないほど立ち寄らせて貰ったが、現在はもう閉店している。
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詩人飯島耕一氏が 14日に死去。というニュースを25日の新聞で見た。
飯島耕一という詩人を意識したのは『日本のベル・エポック』を発表したあたりだったろうか。その後、同じ明大の教授であった川崎展宏氏の縁で、ご一緒に一日鎌倉を歩いたことがあった。句会をして、それからまた新宿まで戻ってきてボルガで飲んだ。まだ川崎展宏氏が貂を立ち上げて間もない頃で、お互いに若かった。

お目にかかったのはその一回だけだったが、背丈が高いわけではなかったが、男っぽい四角い体格で、展宏氏とは逆の印象で受け止めた。年齢的にも展宏氏よりは若かったのではないかと思っている。そのボルガで、幾たびか川崎展宏氏をけしかけていた。何をと問われても記憶が薄れてしまっているが、とにかくこのままではいけない。前へ進めというようなことだったと記憶している。

その川崎展宏氏ももうすでに他界している。今頃はあちらの世界で大声で口角泡を飛ばす論を戦わせあっていることだろう。
それぞれの方の、ご冥福を祈りたい。

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