2016年12月 のアーカイブ

「ににん」65号発送

2016年12月30日 金曜日

今年最後の仕事、「ににん」の発送も完了した。あとは郵便屋さんの集荷を待つのみになった。数えれば創刊17年目に入っていた。その節目の昨年秋号から「~共存~というテーマで生き物を詠む企画が始まった。

第一回目として「水母の余韻」とする23句を発表。65号は「じぐざぐ」という蟻の23句が発表される。同じ生き物での連作は難しいのだが、難しいものに挑むのが「ににん」の「ににん」たるところである。

短期間に多少の無理も承知で、口火を切ったわけだが、理解してくれる人も現れた。
「こんなときには無理矢理作るのよ」と言ったら
「いやいや、その痕跡は見せていない」と言ってくださる方もいた。

「岳」12月号~ では展望現代俳句で水母を取り上げてくださった。全文を転載させていただくことにする。

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海月また骨を探してただよへり     岩淵喜代子

筆者・佐藤映二

「ににん」秋号より。「余韻の水母」と題して、23句すべて水母の季語を配した意欲に惹かれる。〈骨を探して〉から、どうしても東日本大震災の大津波に遭難した幾多の人を想起する。5年半経った今でも、行方不明者の捜索が節目ごとに実行されている。無力感に幾度も押しつぶされながら、その片鱗もとの願いに寄り添う気持ちが(また)の措辞によって表されている。同時作「忘れよと水母の海に手を濡らす」も、今は何事もなかったかのような海に手を浸すことで、却って忘れ得ない現実に引きもどされる哀しさを表しているのである。
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この企画を20周年の特集号として一挙掲載することにしている。一月発行の65号には第二弾として「じぐざぐ」川村研治さんの蟻を詠んだ郡作、そして66号では「海鼠の郡作」が発表される予定。

あめんぼう大きく四角張つてをり   草深昌子

2016年12月24日 土曜日

(草深昌子第三句集 『金剛』 2016年 ふらんす堂)より

ほかに( 七夕の傘を真つ赤にひらきけり)(一束は七八本の苧殻かな)(初蝶の如雨露を越えて来たりけり)(豆飯に豆の潰れてあるが好き)(蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり)など、枚挙に遑が無い。

掲出句、大きな足を四方に踏ん張っている姿は、生き物への愛おしみの視点が働いている。(四角張って)という捉え方とは裏腹に、あめんぼうは華奢な生き物である。

去年今年夢の中にも鳥居かな   松尾隆信

2016年12月24日 土曜日

(松尾隆信 句集『弾み玉』  2016年  角川書店)より

これから初詣に行こうとしている時間なのか、あるいはもう済ませてきたのか。そうして、転寝の間にか、あるいは元日の朝の目覚めの後なのか。どちらにしても印象に残っているのが鳥居というのも可笑しい。

昼寝より起ちて巨人として去れり   宗田安正

2016年12月24日 土曜日

(宗田安正第三句集 『巨人』  2016年  沖積舎)より

昼寝の間は頑是ない子供と同じように他愛なく眠っていたのだろう。それは誰でも同じ姿をしている。だがひとたび目覚めてみれば、現世のしがらみの鎧を纏って、どこかに向かっていく後ろ姿になるのだ。(巨人として)には昼寝から立ち上がったものの気迫のようなものも見えてくる。

氷瀑をしばらく雨の叩きけり    奈良文夫

2016年12月24日 土曜日

(奈良文夫第六句集 『急磴』   2016年   ウエップ)より

氷った滝、その動きのない滝、しかも音もない滝をしばらく雨が叩いたのは、作者だったかもしれない。あるいは作者の思いが雨になったのかもしれない。

水辺とは十一月の鳥の数   木内憲子

2016年12月24日 土曜日

木内憲子第二句集 『夜の卓』  2016年  ウエップ

十一月をなんの衒いもなく言い切って、水辺の鳥の動きを穏やかな小春の中に据えた手腕が見事だ。

どのあたりまでが現世かすすき原   七種年男

2016年12月24日 土曜日

(七種年男第一句集 『輪中の空』2016年 文学の森)より。

薄原の空間が果てしもなく続いているような気がしてくる。しかも、上五から中七へわたる措辞から、墨絵のような薄原の色合いが読み返す重厚になる。

やっと帰ってきたパソコン

2016年12月23日 金曜日

前の書き込みを見ると12月8日になっているから、すでに二週間を越えているのだ。ずっとネットもメールもつながらなかった。

丁度ににんの初稿を済ませたデーターを送って間もなく、間違ってクリックしたばっかりに初期化してしまったのである。まー、それでも、中身が見えればよかったのだが、その中身が所有しているofficeの№を書き込めという表示が出た。

今考えれば、その指示に従っていたほうがよかったのかもしれないが、番号はほかにもあったので、もしこれ以上ヘマをしてもいけないとPCデポに持ち込んだ。

そうしたら、なんとなんとそれから戻ってくるのが二週間近くも経ってしまったのだ。詳細を言えば、Windows8になってしまっているので一度全部データーを移して、それからWindows 10に入れ替えるというのだ。

もうこの際仕方がないと思ってそれに従ったのだが、必要なフアイルをCDに移してもらって、古いパソコン(2004年のWindowsXP)で作業をすることにした。

締め切り日のきている原稿が、戻ってきたパソコンでやっと送ることができたのだが、まだまだ、以前と違ってしまった表示、無くなっているアプリなどなど、非常に不便になった。

パソコンも自分の使い勝手にするためには月日が必要なので、迂闊に修理に出してはいけないことも、この際肝に銘じた。漢字変換にしてもどのくらいもどかしい思いをすることか。

一番不便を感じているのは、今まであったスタートボタンが無くなっていることだ。電話をすると、本来は必要な出張費、それを無料で調整に来てくれるという。それも暮も押し詰まった27日でなければ順番が回ってこないという。やれやれ。

 

さいたまスーパーアリーナへ

2016年12月8日 木曜日

7日は、いつもはににんの編集部で校正したゲラをパソコンで訂正し終わって印刷所に入稿する日である。

しかし、昨日は埼玉スーパーアリーナで行われる『金色交響曲~わたしのゆめ、きみのゆめ』を観に行った。60歳以上の人を募集して編成した芝居というかオペラというか、とにかくとてつもない大人数が舞台で演じるのである。6月に亡くなった蜷川幸雄さんの企画した群衆劇だという。

そんな演劇に出掛ける気になったのは、カルチャーの受講生がそこに出演するというからだ。出演者は1600人、観客が8,000人というマンモス劇場のある「さいたま新都心駅」も初めて降りる駅だった。

すべてがロミオかジュリエットである。そのロミオ達とジュリエット達に将来の夢を語らせる場面がある。この場面は二年程前に見た映画『滝を見に行く』を思い出させた。映画も一般公募の人たちによって構成されたものだった。

出掛けるまで修正していた「ににん」原稿の残りも帰ってきてからし尽した。これを印刷所に送ってしまえば安眠できるようなきがして、いつも真夜中でも印刷所に送ってしまう。

ところが、昨夜は睡魔が襲ってきて、パソコンの画面を見ながら眠ってしまいそうになる。やっとのことで送るだけおくって、ベットに辿りついた。

三種類の眼薬を寝ながらさすつもりだったが、最初の目薬を差しただけで、薬はみんな残っていた。さらには、もう一度、データーが無事に送られたか確かめてみると、何度も同じフアイルを添付していたりして、眠りながら行った痕跡が残っていた。

さらには、送信しないデーターが一点残っていた。とにかく無事に「ににん」65号の入稿が済んだ。

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