(草深昌子第三句集 『金剛』 2016年 ふらんす堂)より
ほかに( 七夕の傘を真つ赤にひらきけり)(一束は七八本の苧殻かな)(初蝶の如雨露を越えて来たりけり)(豆飯に豆の潰れてあるが好き)(蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり)など、枚挙に遑が無い。
掲出句、大きな足を四方に踏ん張っている姿は、生き物への愛おしみの視点が働いている。(四角張って)という捉え方とは裏腹に、あめんぼうは華奢な生き物である。
(草深昌子第三句集 『金剛』 2016年 ふらんす堂)より
ほかに( 七夕の傘を真つ赤にひらきけり)(一束は七八本の苧殻かな)(初蝶の如雨露を越えて来たりけり)(豆飯に豆の潰れてあるが好き)(蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり)など、枚挙に遑が無い。
掲出句、大きな足を四方に踏ん張っている姿は、生き物への愛おしみの視点が働いている。(四角張って)という捉え方とは裏腹に、あめんぼうは華奢な生き物である。
(松尾隆信 句集『弾み玉』 2016年 角川書店)より
これから初詣に行こうとしている時間なのか、あるいはもう済ませてきたのか。そうして、転寝の間にか、あるいは元日の朝の目覚めの後なのか。どちらにしても印象に残っているのが鳥居というのも可笑しい。
(宗田安正第三句集 『巨人』 2016年 沖積舎)より
昼寝の間は頑是ない子供と同じように他愛なく眠っていたのだろう。それは誰でも同じ姿をしている。だがひとたび目覚めてみれば、現世のしがらみの鎧を纏って、どこかに向かっていく後ろ姿になるのだ。(巨人として)には昼寝から立ち上がったものの気迫のようなものも見えてくる。
(奈良文夫第六句集 『急磴』 2016年 ウエップ)より
氷った滝、その動きのない滝、しかも音もない滝をしばらく雨が叩いたのは、作者だったかもしれない。あるいは作者の思いが雨になったのかもしれない。
木内憲子第二句集 『夜の卓』 2016年 ウエップ
十一月をなんの衒いもなく言い切って、水辺の鳥の動きを穏やかな小春の中に据えた手腕が見事だ。
(七種年男第一句集 『輪中の空』2016年 文学の森)より。
薄原の空間が果てしもなく続いているような気がしてくる。しかも、上五から中七へわたる措辞から、墨絵のような薄原の色合いが読み返す重厚になる。
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