多分、読んだのは『ノルエイの森』だろうか。はじめて読んだ小説と相性が悪かった。それ以来村上春樹の作品は私には縁のないものと思い込んでしまっていた。
書店に行くたびに、村上春樹の小説は店頭に、それも目立つ所に置かれていて嫌でも目に入った。10年近く前だっただろうか。上海の大型書店に入ったときに、あるコーナーが上から下まですべて村上春樹の作品で埋まっていたのには、改めてその作家の世界的な人気度を認識した。
ここにきてふたたびその作家の書き下ろし小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」発売され、そのときは開店前の書店に長蛇の列ができているのがテレビで放映された。発売7日目で累計100万部に達したと発表されている。凄いのひとことである。
だからというわけではなかったが、ある日バスが来るまでの時間つぶしに書店に入ったら、真正面に村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が山積みにされていた。品切れなどという風聞もあったので、そこにたっぷり村上春樹の作品があるのがむしろ意外だった。思わず何十年も素通りしていた村上春樹の本を手にとってしまった。
一か月とは経たなかったと思うのだがすでに七刷りくらいになっていた。大昔、谷崎純一郎の『痴人の愛』だったかが、やはり発売されてそれほど日が経っていなかったにも関わらず、かなり版を重ねていたのを思い出した。
で、その『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』はどうだったかと言えば一気に読んでしまった。読んだ後で「狡いー」と思った。なにせ、この小説はスリラー小説の手法をとっている。先へ先へと追いたくなる手法である。もしかしたら、村上春樹は売れて当たり前というスタンスに呪縛されていないだろうか。
まー、その問題点は脇に置いて、この作家の作品がこんなに癒し系であったのだろうか、と思った。誰でもがもつ負の内面、そこに共鳴して安心させるのである。そして、小説のなかの田崎つくるは現代青年のモデル的な位置にあると思った。言い換えればショウウインドーの中の人生で、憧憬を持ちながらショウウインドウに額を寄せて眺めているのが読者層ではないだろうか。
そのあと初期の『風の歌を聴け』を読んだ。文庫本の裏表紙にはーー(僕)の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさって。青春の一片を乾いたタッチでーーとある。今回の「田崎つくる」の老成した人物の原初があるような気がした。