帯文には自らのことばで以下のようにある
《組曲》のかたちに行(句)を構成することには、時間のなかに行を解き放つことである。それは《物語》がそこに在らうとする、そのなかへ行をあそばせること――《物語》の予想される団円に、そしてより多くは、その予感に生れる情意を、行たちのあひだに《組曲》は構成する。
帯に書かれた作者自身のことばを書いておくのが一番わかり易い。いつもののように一句ずつ気になる句を抽出するという句集の読み方を拒絶しているからだ。
第一章のタイトルが「瑜伽台地」その一章の中に 白き夏果て 手 母がわたしに 夕帰 白き佛・・・などなど50くらいの見出しがならぶ。
その小見出しだけ読んでも詩の匂いがしてきそうである。しかも、どこを開いても物語的だ。
手
母よこの濃き夕翳はあなたの手
母がわたしに
母がわたしに教えてくれた歌の日暮
わたしは右手に花の日暮を摘む
母が私に教えてくれた歌の涙
夕帰
日暮来るたびに焼かれし銀閣寺
鳩吹く暮のひとりは帰らず
作者自身が組曲ということばを使っているように、一節から次の一節へとうつってゆく時間の流れの中に作者の過ごした時間が立ち上ってくる。
したかげ
あぢさゐに鼓を隠し夜ごと打つ
くさかげ
くさかげのひとりの夏にねむる私
昼の深さの奈落に匙の落ちし音