大空へ駆けだしてゆく小鳥かな   川村研治

(空へ駆けだす)は特異な表現にも見えながら、たしかに突然飛び立つ小鳥の飛翔を言い得た措辞である。自分の感覚を信じなければ詠めない叙法である。 川村研治第二句集『ぴあにしも』 現代俳句の展開Ⅲ-5 現代俳句協会刊より。

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句集は昭和61年から平成25年平成25年まで、約27年分の俳句である。一集にするにはずいぶん割愛した句もあっただろうと思った。一読して、川村研治さんの茫洋とした人柄、そのものがすべて俳句に現れた、という思いを強くした。

ふゆざくらふゆのさなかにちりをへぬ
たんぽぽの絮とぶ中やピアノ来る
青鳩を待つ明るさとなりにけり

事実を淡々と受け止める句というのは、その切り取り方こそが生命である。当たり前なような、このさりげなさが、川村研治さんの茫洋俳句の底辺である。

火星接近おしろい花の種をとる
冬支度せねば駱駝の瘤ふたつ

前述の三句に詩的意識をさらに加えたときに、こうした句になるような気がする。芭蕉の言う取り合わせである。一句目は(おしろいの種をとる)によって、火星が地球にぶつかってくるような緊迫感を持たせる。それでいて採っているのは花の種である。その可笑しみこそが川村さんの茫洋さなのである。二句目も非常に面白い。冬支度から駱駝の瘤へゆくまでの見えるか見えないような繋がりこそが俳諧なのである。

鳴りいづる鈴を泉に浸すかな
みんみん蝉のみんみんが見えてくる

一句目はまるで鳴り止まない鈴を泉に浸して鎮まらせようとしているようにも思えてくる。虚実皮膜とは、こういう作り方を言うのではないだろうか。それは二句目に言える。みんみん蝉の啼き声が見えてくる、と言われると、さらに存在感をもつ啼き声になる。

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