高浜虚子

20日同人誌について触れたが、明治45年6月号の「ホトトギス」には虚子の編集に対するかすかな躊躇が書き込まれているのを知った。虚子の言葉は昨年11月に亡くなったばかりの黒岩比佐子著『古書の森』の中で知った。この本に触発されて図書館で「ホトトギス」を開いてみた。

「ほととぎす」明治45年6月号では、島村抱月・森律子・徳田秋声・佐藤紅緑・安部能成・森田草平・内藤鳴雪などの顔ぶれが執筆している。一見なんでもないことのように思えるが、これは文芸協会公演『故郷』の特集のようなものになったのである。編集者の偏執的な盛り込み方という見方も出来てしまうのである。虚子もその事を十分自覚しながら、如何にも虚子らしい論を展開している。

愛読者諸君。くどいようですが申しあげます。
仲間の雑誌といふことと、一人の雑誌といふこととを考えて見ると、一人の雑誌といふ事は非常に狭いやうに考えられます。また実際狭いものだと思います。若し従来のやうに自分一人の文章で埋めるとなると其は極めて狭いものであります。併し一旦編輯といふ事にも力を注ぐやうになりますと、一人の雑誌の方が却って仲間の雑誌より広いものになるやうにも思われます。

虚子のこういう書き出しから、編集者が五人いれば、其の中の四人が嫌がるものは載せることは出来ない。しかし一人の雑誌ならその人が載せていいと思うものは悉く載せることが出来て、結果としては趣味の広い雑誌になるだろう、と書いている。見方によっては我田引水式である。このくどくどとした書き方は虚子らしくない。

それは、漱石の人気によって支えられてきた「ホトトギス」四千部の発行部数が、明治四十三年ころにはその三分の一に落ち込んだ事を知れば頷けるのである。それまで編集に参加していた内藤鳴雪・阪本四方太・寒川鼠骨・碧梧桐等と相談して社員組織をやめ、原稿料も全廃した直後の45年の十月には「本誌刷新に就いて」という告示を行い、執筆、編集、発送などすべてを虚子一人で行うことになった。その奮闘振りは「虚子十態」と題した戯画となって雑誌に掲載された。

確かに雑誌の編集はそれに直接携わるものには、自分の本意でないものは載せたくないのである。また自分が嫌だと思うものは、表紙絵一枚使いたくはないのである。そのあたりのことでは、商業誌などの編集者はどんな折り合いをつけるのだろうか。

「愛読者諸君」という呼びかけは、虚子の必死な説得文なのである。子規が亡くなったのが明治35年。それから10年経てやっと虚子自身の「ホトトギス」として出発する時期だったのだ。だが最後にやっぱり唯我独尊の虚子だー、と思わず叫びたい一文に出会うのだった。

ーー本文に用ゐた私という文字は「わたし」ではなく「わたくし」と読んで戴きます。ーー

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