2011年1月26日 のアーカイブ

同人誌とは 2

2011年1月26日 水曜日

愛読者諸君。くどいようですが申しあげます。
仲間の雑誌といふことと、一人の雑誌といふこととを考えて見ると、一人の雑誌といふ事は非常に狭いやうに考えられます。また実際狭いものだと思います。若し従来のやうに自分一人の文章で埋めるとなると其は極めて狭いものであります。併し一旦編輯といふ事にも力を注ぐやうになりますと、一人の雑誌の方が却って仲間の雑誌より広いものになるやうにも思われます。

23日のブログに引用した虚子の言葉を再び取り上げる。この論は実際に編集を携わっているものにはよく解るのである。大勢はいい案がたくさん出ると思いがちである。たしかに出るかもしれない。しかし、それが精鋭の特殊な天才的な編集能力を持っている人が集まるなら、確かにそれはいい案も出るだろう。

あるいは、編集が好き、雑誌に夢を持つと言った人達ばかりで構成されていれば、それは何か新たな画期ある企画が生まれるかもしれない。だがそんな集団はなかなか実現出来ないし、その夢のぶつかり合いで、同人誌は三号雑誌になるのである。俳句同人誌のように普通に集まった編集員が構成されたとしても特殊なピジョンを持っていなければ、きっとこれまでの既成の雑誌の好みのところを提案するに過ぎないのである。

そうだとすれば、なんら刷新された紙面にはならないで、どこにもここにもある雑誌と大同小異になるだけである。さらには、その集まった人たちの多数決で決まるとしたら、それは全員が百パーセントの納得で決まったことにはならない。何処かに不満を抱えながら携わるのは、雑誌に対する気持ちの萎えとなる。そんな不満を抱えた雑誌を読者も面白いとは思わないだろう。

とは言っても俳句雑誌であるから俳句を載せる、俳句の評を載せる、文章を載せるということになるのだから、変化はデザインくらいしかないかもしれない。第一内側の人が、作品を乗せられればいい、というだけで編集に対する特別な雑誌を臨まなければ、なおさら一人奮闘するしかないのである。

ひとり密かに、どこか中身から匂い出すような顔を持つ雑誌にしたいと念じている。中身がよければ解る人は解ってくれると言う人もいるだろう。しかし、その前に手にとって貰わなければ中身は読めないのである。

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