2012年7月 のアーカイブ

正津勉著 『河東碧梧桐』 2012年7月 平凡社新書

2012年7月17日 火曜日

syouzubenn
正津氏が碧梧桐に感心を寄せたのは全国行脚『三千里』にある。
それは自身が山を愛している所縁だと思う。そうしてもう一つの理由はタイトルにも付されているように「忘れられた俳人」であることに憤慨しているのである。
子規の双璧だった虚子と碧梧桐、それがなぜ虚子だけが抜きんでてしまったのか。「ににん」の今年前半まで連載していたものが立ちどころに一書になった。

『篠』 2012年 161号 主宰・岡田史乃

2012年7月16日 月曜日

岩淵喜代子句集『自雁』を読んで
            筆者 辻村麻乃

 句集『自雁』は作者の第五句集で三〇八句が収められている。
 あとがきで「書くことは『生きざま』と書き残すことだと錯覚してしまいそうですが、等身大の自分を後追いしても仕方がありません。」と述べている部分が大変印象に残った。

  初夏や虹色放つ貝釦
  化けるなら泰山木の花の中
  空蝉を鈴のごとくに振つてみる
  バス停に立てばバス来て星まつり

 幼い頃に謎めいて見えていた現象は、大人になってみるときちんと原因があって起きていたことに気付く。安堵と幻滅を繰り返していくことで、真に心を動かす物の存在と出会う。作者はこのような出会いを多くしているのだろうか。

  箱庭と空を同じくしてゐたり
  少年に螢の闇の見張らるる
  鬼の子や昼とは夜を待つ時間
  月夜茸母が目覚めてくれぬなり
  地獄とは柘榴の中のやうなもの

 人は心の中に闇を持っている。それに気付くかどうか、またいつ気付くのかは各人の感受性の強さに依る物だと考えている。闇は見えない方が幸せなのかも知れないと感じさせられる句である。
 このように浪漫に回避する句ばかりでなく、現実を直視した句も多く見られる。

  晩年は今かもしれず牛蛙
  紅薔薇我病まぬとき夫の病む
  赤飯に振る胡麻粒や鳥渡る

 きちんと対象を見極め、且つ淡々と生きている様子が句の中に表われており、何度も読み返したくなる。雁への観察眼も鋭い。

  着水の雁一羽づつ闇になる
  雁帰る川が鏡となりしとき

 他者や家族との交流の中にも絆がある。

  盆踊り人に生れて手を叩く
 独りづつ雛に顔を見せにけり
 太陽の中は真つ暗終戦日
 寒林になつてしまつた青年ら

暦は人が創ったが、季節ははじめからあった。自然への畏敬の念が含まれている。

 なめくぢり昨日と今日の境なく
 白亜期の記憶の筋を花びらに
 
 五感で感じた全ての事象を受け入れて生きていく作者の姿勢が清々しく感銘を受けた。

 まるごとが命なのかも海鼠とは

頭痛・肩凝り・樋口一葉

2012年7月15日 日曜日

 井上ひしの「頭痛肩凝り樋口一葉」を観たことも読んだこともないのだが、一葉も頭痛肩凝りに悩んでいたのだろうか。
 肩凝り、首筋の張りが頭痛もともないながら突然襲ってくる。その症状は必ず起床時から始まる。何時か救急車を呼ぶ破目になった眩暈も起床時。眩暈が起床時はわかるが、肩凝りが朝から始まるのは不可解というより理不尽である。寝る姿勢が影響するのかもしれないとも思い、寝具に気を使い、デパートで身体に合わせて買った高価な枕も使ってみた。だが、そんなことは一向に改善にはなっていない。

 先日、慈庵に集まった人たちから「凝り」の話題が上った。私よりもっと若いひとでもやっぱり凝るのだ。月に一回の人、週に一回の人、二回の人、とそれなりの身のケアーをしている。そう思うと何だか気が楽になった。それで、かねて行ってみようかな、と思っていた医院を訪れた。場所は、駅までの途中のバス亭前、我が家から徒歩でも10分とはかからない。

 接骨、肩凝り、保険が利くというような関係のある文字をインプットしておいた。以前は何を営業していたところなのか、張りめぐらされた硝子戸に接骨医院と書かれているが、その文字が剥げかかり、営業をしているのか危ぶんだ。しかし、時折、そこへ入ってゆく人を見かけたので診療はしているようだった。外側からの雰囲気で、腕は確かだが気難しそうな老いた整体師がひとりで診療しているような風景を想像した。それも、その医院へ行くのを躊躇っていた理由である。

 怪我をしたり確たる病名のある場合は治療に躊躇することはないのだが、肩凝りなどは病気の範囲にはいるのかどうか。まして、何か特別な仕事をしているわけでもない。言ってみればしなくてもいいことをしながら遊んでいて、肩凝りの治療に行くことに引け目がある。おそるおそる戸を開けると、治療をしている人が奥に見えた。意外やどちらも40代か50代の人だ。そうして、外側で想像したのとは違った明るい空気が流れていた。

 揉み始めから、今までの治療を受けたのとは違っていた。指をあてる度にその力は皮膚から垂直に身体の中へ入るのである。こんなことならもっと早くくればよかった。首筋の張りが取れ、後頭部分の痛みもほとんど消えた。この世で痛みほど耐えられないものはない。多分私が拷問を受ける羽目になったら、何でも言いなりになってしまうだろう。頭痛の消えたあとのなんと爽やかなことよ。

角川『俳句』2012年7月号

2012年7月15日 日曜日

今月の10句       山口優夢

     紫陽花に嗚呼と赤子の立ち上がる    岩淵喜代子
                               (句集『自雁』より)
 〈紫陽花〉の「あ」、〈嗚呼〉の「あ」、〈赤子〉の「あ」、〈上がる〉の「あ」。頭韻がすっきりした印象を句にもたらしている。さらに〈嗚呼〉の漢字表記。「ああ」でも「アー」でも「ああ」でもない。〈嗚呼〉は赤ちゃんの単なる発声というよりは、まるで嘆息のような印象を与える。しかしここに表れているのは赤子の心情ではない。しっとりと雨を含んだような沈潜した色合いの紫陽花を前にして、意思疎通をはかる言葉をまだ持
たない赤子の声を〈嗚呼〉という形で聞き止めてしまうところには、作者自身の鈍い悲しみのような心境の反映があるだろう。そして赤子の〈立ち上がる〉行為がそんな嘆きを打ち破る力強さを期待させるのだ。

『椎』2012年7月号 主宰・九鬼あきゑ

2012年7月14日 土曜日

現代俳句鑑賞(61)    筆者 鈴木一宏

 岩淵喜代子句集『白雁』

 句集を拝読していると決して珍しいことではないのだが、句を読んだ後で作者の年齢を知って驚いた。作者の岩淵氏は昭和十一年のお生まれであるとのこと。
 『自雁』は若き冒険の心に満ちた書である。間もなく喜寿を迎える方が詠まれた句集とは思えない。

  
  初夏や虹色放つ貝釦
  箱庭と空を同じくしてゐたり
  小豆粥穢土も浄土もなかりけり
  雪女郎来る白墨の折れやすく

 素材や表記は伝統的な枠の中にある。外来語も少ない。それでいながら、句が新鮮な青い香りを放っている。どの句もみな軽い。あえて重いものを切り捨てた上質な軽さである。型や解釈による束縛から逃れ、作者と読者は手を携えて世界の新しい地表を歩いていく。
 掲句、一句目。作者が釦を見たのは多忙な生活の一場面に於いてのことである。しかし読者は、静謐な空間に導かれ、何ごとにも煩わされず釦に見入ることができる。「貝釦」とした体言止めが効いている。ジャケットやシャツなどの釦が虹色に輝くのは特殊なものではないだろうが、釦を発見した今この時の、一回性の体験が純粋なまま切り出されて非常に美しい。作者は感動の中身を誘導しない。それは読者各自が自ら体験し、見いだすべきものなのだ、とよくわかる。この初々しさは他の前掲三句にも共通する特徴だ。

  晩年は今かもしれず牛蛙

 牛蛙は大正時代に食用としてアメリカから輸入されたものが、やがて野生化し現在に至るのだという。牛に似た野太い嶋き声が特徴。雑食で食欲旺盛。握り拳より一回りから二回りくらいも大きい。繁殖力が強く、寿命は優に十年を越えるらしい。実際に目で見るよりも声を聞く方が多い。たぶん作者は自分の命に暗い予感を抱いた時、この逞しい蛙の声を聞いたのである。その声は深い死の淵の暗がりから生あるものを招く魔性のようでもあるし、強い生命力によって生きることに切羽詰まった覚悟を促すもののようでもある。実際の終焉がいつであれ、「晩年」の自覚を持ってこの声を聞いた者は、動かしがたい運命の前で恐怖と生への使命感とを強く感ぜざるを得ない。

  よく笑ふ鳥も加へて避暑の宿

 気の置けない仲間で、ちょっと贅沢な高原の宿にやってきた。荷物を下ろすと、散策にでかけるより、まず話に花が咲く。旅の車中でさんざん喋っているにもかかわらず、菓子など勧め合いながら、話が止まらない。他愛もない話が明るい笑い声に包まれている。その会話の隙間に、鳥たちが盛んにさえずる声を聞いたのである。鳥も笑っている。それに気がついたとき、鳥よりも高い視界から、愛すべき小さな幸せの場を見下ろすことができた。人生の束の間の一場面に、深い満足と慈しみとを感じることができたのだ。この曰く言い難い機微が、さっと句の形に仕上げられている。 
 

  盆踊り人に生まれて手を叩く

 自分のことを、人として使令や役割を持って生きている存在だ、と思いたくない時がある。万物の霊長などでなくともよい。偶然のめぐり合わせでこの世にいて、今自分が何者で、何をしているのかまるで理解していない。そんなふうに愚かしくも無垢な存在であっていい、と思ったりする。掲句を詠んだとき、まさにそんな自分を夢想していた。盆踊りの最中に、今までの人生で得た知識や倫理を全部忘れて、「偶々ここにいる自分」にふと立ち戻る。禽獣昆虫、草木菌藻、土石山水。生物無生物の則を越えて漂泊、転生する魂としてみると、盆踊りの喧噪の中で腕を振り手を叩いているこの自分とは何なのか。果てしなく不思議で、果てしなく愉快な思いがこみ上げてくる。

  
  地獄とは柘榴の中のやうなもの

 かつて芥川龍之介は『休儒の言葉』に「人生は地獄よりも地獄的である」という警句を残した。彼のいう 「無法則の世界」の現実から見ると、いかに残酷無慈悲を装おうと地獄の責め苦は人間の想像力の範躊を出ることはなく、むしろ牧歌的ともいえる或る種ののどかさをもっている。柘榴の実の割れ目から覗く果肉は沸々とたぎる血のように赤く、味は人肉のそれに似るという迷信がある。実際には少し苦みのある、甘酸っぱい味がするそうだ。柘榴の中の異世界には、衝撃的に醜悪だが、視線を逃さない魅力がある。地獄もやはり一筋縄ではいかない多面性を持つ世界かも知れない。
 筆者はあとがきで、晩年の加藤楸邨らの革新的業績に触れ、「自分を変える旅をしたいと切に思っています」と記す。終わりなき旅の行方に幸あらんことを。

俳人協会図書室で

2012年7月13日 金曜日

 「お怪我は治りましたか」と聞かれてようやくUさんだと気がついた。
 怪我のことを知っているというのは、今年出会っているということだ。以前のブログに怪我とその手術については書いておいたが、あれから半年経っている。大方の人はもう完治したと思っているだろう。だが、私はひそかに治らないのではないかと思ったりして、医師が手術をしたがらなかったのは、それなりの理由があるのかもしれないと、不安を抱えていた。治らないだけではなく、もっとひどくなって小指切断などという場まで想像した。

 何しろ、怪我は正月早々で、傷が治ってから指の腱が切れていたことに気がついたのである。そうして手術が一月の下旬。そのときから50日間、指の中心を金属の棒が貫いていた。3月の中旬に金属の棒を抜いたのだが、それから子指全体がちりちり痛むし、赤く浮腫んだ指は腐ってしまうのではないかとさえ思えるほどいつも腫れていた。「黴菌が入ってしまうこともあるし・・・」と医師は手術の前に言っていた。

 体全体からすれば子指なんて些細な存在である。しかし、子指にしてみれば、身体の内臓全部を手術するくらいの大手術だったのだ。腱というものへの知識もないが、「切れた腱は日を経て萎縮してしまっているし、それを引っ張ってきて繋げても、また切れてしまうことがあるから・・」と、あのときの医師はとても手術に消極的だった。成功率の低い手術はやりたくなかったのだろうか。 そのわりには、一時間半の手術中の二人の医師の会話は、おままごとでもしているように穏やかだった。

 「治りました」と、Uさんに自信を持って言えたのは、あとは傷口のあたりの腫れがなくなれば完治したと言えるからだ。指の屈伸も自在に出来て、言わなければ傷口もわからない。そう言えば、「怪我をしてから日が経っているので切り口も大きくなるので・・」とも医師は言った。そういうことを思いかえしみると大成功の手術だったようだ。ヨカッタ。

高岡すみ子第四句集『ひよんの笛』  2012年7月  本阿弥書店

2012年7月13日 金曜日

1937年生れの「さいかち」主宰。平成17年から24年までの句を収録してある。

風通しよき山門に蟻の列
巾着にお手玉三つ冬に入る
落葉積む太郎ゐさうな診療所
亀が木に登つてゐたる春の夢
曼珠沙華ちち在れば髯あたりたる
枯滝の石が肝心利休の忌
金網にあそびざかりの芥子坊主
おじぎ草小指がふれただけなのに
初明り一千号へ深呼吸
春の鳶はひはひの子がいちもくさん
みちのくの梅雨の風鈴鳴りどほし
りんご煮る十分間の火のかげん
初夢や凭れてゐたる大きな背
晩年は自然に添うて初さくら

タイトルの『ひよんの笛』は(七十路のおんなたのもしひよんの笛)から得ている。この一句に作者の向日性が伺われる。そのため全体に流れる抒情性も輪郭を得た表現で俳味に繋がる。

『浮野』2012年7月号  主宰・落合水尾

2012年7月10日 火曜日

新刊句集紹介     筆者  鈴木貴水

☆句集『白雁』  岩淵喜代子
 一丸三六年東京生。一九三六年[鹿火屋]入会、原裕に師事。後に川崎展宏主宰の「詔」の創刊に参加、二〇〇〇年同人誌「ににん」創刊。二〇〇一年句集『螢袋に灯をともす』により東京四季出版「俳旬四季」大賞を受賞。2010年評伝『頂上の石鼎』により埼玉文芸賞受賞。他著書(句集『朝の椅子』『硝子の仲間』『恋の句愛の句、かたはらに』『嘘のやう影のやう』『現代俳句文庫岩淵喜代子句集』、エッセイ集、共著等々)現在「ににん」代表、目本文芸家協会会員、日本ペンクラブ会員、俳人協会会員、現代俳句協会会員、国際俳句協会会員。
 
自選十二句より
 万の鳥帰り一羽の白雁も
 幻をかたちにすれば白魚に
 花ミモザ地上の船は錆こぼす
 十二使徒のあとに加はれ葱坊主
 今生の螢は声を持たざりし
 月光の届かぬ部屋に寝まるなり
 狼の闇の見えくる書庫の冷え

 一句目が句集命名句である。清水哲男氏は「万の人間の一人として万の鳥の一羽を詠む。等身大の人生から、ユーモアの歩幅とペーソスの歩で抜け出してはまた、岩淵喜代子は地上に還ってくる」と「帯」にコメントを記載されている。
 
感銘句
 北まはり南まはりや草萌ゆる
 原子炉の壊れて桜満開に
 花の下覗けばどこもがらんどう
 
 句集『白雁』を詠み終えて、芭蕉の唱えた「不易流行」が頭を横切った。もちろん「流行」は作者が常に新鮮な発想を持つことである。『白雁』の作者は今の自分を全身で抜け出すという常に進行形の考えを持って作品に集中している。大変刺激を受ける作品集である。又落合水尾「浮野」主宰より一読を薦められた作品集でもある。

『谺』2012年7月号 主宰・山本一歩

2012年7月8日 日曜日

我田引水(181)    筆者 平田雄公子

等身大からの脱却、そして変貌
        -岩淵喜代子の世界-

 岩淵喜代子(ににん)氏の第五句集『自服』(平成二四年四月・角川書店刊)を読み込みます。
同氏の句集を本欄で取り上げるのは、四年振り四回目となります。また、氏がその間、俳誌《鹿火屋》の創始者原石鼎の評伝
として『頂上の石鼎』(平成二一年九月・深夜叢書社刊)の一大著作を、上梓されたことも付記しておきます。

 夜が来て蝙蝠はみな楽しさう
 一般的には「夜が来」るのは、昼間の活動の結果としてほっとすることはあっても、必ずしも「楽し」くはない。しかし夜行性の「蝙蝠」が、逆さ釣りの寝床から開放され、薄暗い夜空を群れ飛んでいる景は、見るからに 「みな楽しさう」。生命の輝きを簡明に指摘した、句。

 サングラス独りごころを育てをリ
  「サングラス」を掛けることは、世の中の全てに一線を画することに通じよう。偶然にしろ、他者との疎外感が「独りごころを育て」るのだ。思考のからくりによる一過性のものであろうが、いささか不気味でもある。

 鷺消えて紙の折目の戻らざる
「紙の折目」は如何に軽く折ったものでも、それを戻す段になるとかなり厄介なもの。他方、日頃畦の一角などに定位置を占める「鷺」の姿が「消え」ると、ぽっかり穴が開いたような具合に、落ち着かない。そう、消えた鷺も、戻らない紙の折目も、もどかしい限りなのだ。

 鳥は鳥同士で群るる白夜かな
 似た者同士と言うが、同種同系の場合は本より、型や大きさが同じ場合も、まま「鳥は鳥同士で群るる」ようだ。ここはまして「白夜」である。時空の進行に酔い、極光の躍動に痴れ、縦横に舞い飛ぶのだ。

 見開きの本のごとくに大花火
 「見開きの本」の広さ加減。それは、真ん中が繋がるからか、片面の二倍以上の広さとなって、見る人に迫るもの。「大花火」も天上に割れると、左右に大きく、円にまた球体に広がり、将に、見開きの本の案配なのだ。

 揺れさうもなくてゆるるや曼珠沙華
  「曼珠沙華」は、ひょろっとしているが頑丈そうなので、「揺れさうもな」いのだが、よく見ると風もないのに「ゆるる」風情。まるで自然の摂理についてとか、父母未生以前についてとか、誰れ彼れを問わずまた死者生者に限らず、語り掛けて来るよう。

 天へ地へ道はつづきぬ葛の花
「天へ地へ道はつづ」く、秋。その舞台は、山道そも山裾を巡り、谷に分け入るアップダウンのあるくねった道であろう。また、山奥の「葛の花」となれば、作者にとっての先師、原石鼎所縁の深吉野は国栖辺りの山地が、思い浮かぶ。葛の花の上に、彼の〈頂上や殊に野菊の吹かれ居り〉の、山頂(おむら山)を望めたのかも。

 風呂吹を風の色ともおもひをリ
 寒い時の煮物として愛好される、「風呂吹」大根(又は、蕪)自体の、淡白で微妙な風合を「風の色」とした。窓外・屋外の風は冷たい一方だが、この風呂吹のそれは、味噌やだし汁の香とともに、懐しくも暖い色合いなのだ。

 薬飲むときの仰向け十二月
 「十二月」は、風邪薬や胃腸薬など健常者でも「薬飲む」機会が多いもの。さて、粉薬は元より丸薬でも、いざ水や白湯と嘸下する段になると、喉越しを気遣ってか誰しも「仰向け」となろう。ユーモアの、句。

 万の鳥帰リー羽の白雁も
 句集名となった句である。雁帰る春。「万の鳥」に混じって「一羽の白雁も」。突然変異であろう一羽の白雁ながら、その超然たる凛凛しさ・健気さが印象的なのだ。北へ帰る旅の安全に加え、行く末の安寧を祈る、そんな句。

 下萌えや雀の奪ふ象の餌
  「象」は図体が巨きいので大量の「餌」を採るのだが、 「下萌え」る春到来の気分にも乗って、あちらかに構えているのでしょう。井の頭公園の老象はな子さんも、鳩や鴉にまで、餌のお裾分けしているのを見かけます。

 原子炉の壊れて桜満開に
 福島第一原発の「原子炉」であろう。人工の悲惨さの対極としての、大自然の恩寵である「桜」の「満開」。それは、天の配剤とは勿論、皮肉であるとも言つべくもない厳粛な事実であり、我々に突き付けられた現場なのだ。

 春の闇鬼は手の鳴るはうに来る
 今更、《「鬼」さんこちら「手の鳴るはう」へ》の、目隠し鬼遊びではあるまい。この鬼は、「春の闇」に拮抗する心の「闇」と解したい。もの思う人の心に現れる断片は、ついつい自家撞着し勝ちなのだ。疑心暗鬼の、句。

 以上、当意即妙振りにも磨きが掛かり、変貌への深化が歴然とした、作品=三〇八句を堪能しました。前回も申しましたが、現代の語部たる作家として、等身大を超克した更なる充実ご発展を、心底から期待します。

『太陽』2012年七月号  主宰 務中昌巳

2012年7月8日 日曜日

岩淵喜代子句集『白雁』鑑賞     筆者 吉原 文音

  「ににん」代表の第五句集。氏の独特の感性から流れ出す詩情の本流、「初夏や虹色放つ貝釦」が巻頭を飾り、一ぺージめくると、「化けるなら泰山木の花の中」といった伏流が流れている。その伏流は本当に非凡で、句集の音色に変化をもたらし、色相を変える。氏の魅力はここにある。

  青鷺の飛びだつときの煙色
 青葉を「煙色」と描写した句眼に脱帽である。これ以上の表現を、私は知らない。

  太宰忌の水盛り上げる鯉の群
 大宰は玉川上水で入水した。大宰を呑み込んだ川の水の勢いを思わせるように、鯉の群が水を盛り上げたのである。心に衝撃が走る。

  病葉も踏めば音して哲学科
  「病葉」と「哲学科」の取り合せが新鮮にマッチしている。「音」がするということは、存在を語っているということだ。ここに哲学がある。

 花ミモザ地上の船は錆こぼす
 「地上の船」とは、或いは津波で押し上げられた船かもしれない。「花ミモザ」と「錆」の衝撃が生み出す詩の世界。それは、光と影、新しさと古さ、エネルギッシュな生と死の対比でもある。

  地獄とは柘榴の中のやうなもの
  「柘榴」のグロテスクなイメージを「地獄」とさらりと言ってのけるとは。私はもう、叫ぶしかない。

共鳴句
  初夏や虹色放つ貝釦
  化けるなら泰山木の花の中
  藁屋根の藁の切口夏燕
  たぶの木に椨の闇あり青葉木菟
  空蝉を鈴のごとくに振つてみる
  蒲の穂は土器の手触り土器の色
  獣らの輪廻転生踊子草
  頬といふつめたきところ楠若葉
  或る蟻は金欄緞子曳きゆけり
  鬼の子や昼とは夜を待つ時間
  着水の雁一羽づつ闇になる
  荒牛のごとく先立て鞍馬の火
  影のごと立つも座るも月の鹿
  遠い田を沖と呼んでは耕せり
  春愁のときどき薬飲む時間
  幻をかたちにすれば白魚に
  牧開くとて一本の杭を抜く
 刺激に継ぐ刺激と快感。私の愛読書となった。

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