『椎』2012年7月号 主宰・九鬼あきゑ

現代俳句鑑賞(61)    筆者 鈴木一宏

 岩淵喜代子句集『白雁』

 句集を拝読していると決して珍しいことではないのだが、句を読んだ後で作者の年齢を知って驚いた。作者の岩淵氏は昭和十一年のお生まれであるとのこと。
 『自雁』は若き冒険の心に満ちた書である。間もなく喜寿を迎える方が詠まれた句集とは思えない。

  
  初夏や虹色放つ貝釦
  箱庭と空を同じくしてゐたり
  小豆粥穢土も浄土もなかりけり
  雪女郎来る白墨の折れやすく

 素材や表記は伝統的な枠の中にある。外来語も少ない。それでいながら、句が新鮮な青い香りを放っている。どの句もみな軽い。あえて重いものを切り捨てた上質な軽さである。型や解釈による束縛から逃れ、作者と読者は手を携えて世界の新しい地表を歩いていく。
 掲句、一句目。作者が釦を見たのは多忙な生活の一場面に於いてのことである。しかし読者は、静謐な空間に導かれ、何ごとにも煩わされず釦に見入ることができる。「貝釦」とした体言止めが効いている。ジャケットやシャツなどの釦が虹色に輝くのは特殊なものではないだろうが、釦を発見した今この時の、一回性の体験が純粋なまま切り出されて非常に美しい。作者は感動の中身を誘導しない。それは読者各自が自ら体験し、見いだすべきものなのだ、とよくわかる。この初々しさは他の前掲三句にも共通する特徴だ。

  晩年は今かもしれず牛蛙

 牛蛙は大正時代に食用としてアメリカから輸入されたものが、やがて野生化し現在に至るのだという。牛に似た野太い嶋き声が特徴。雑食で食欲旺盛。握り拳より一回りから二回りくらいも大きい。繁殖力が強く、寿命は優に十年を越えるらしい。実際に目で見るよりも声を聞く方が多い。たぶん作者は自分の命に暗い予感を抱いた時、この逞しい蛙の声を聞いたのである。その声は深い死の淵の暗がりから生あるものを招く魔性のようでもあるし、強い生命力によって生きることに切羽詰まった覚悟を促すもののようでもある。実際の終焉がいつであれ、「晩年」の自覚を持ってこの声を聞いた者は、動かしがたい運命の前で恐怖と生への使命感とを強く感ぜざるを得ない。

  よく笑ふ鳥も加へて避暑の宿

 気の置けない仲間で、ちょっと贅沢な高原の宿にやってきた。荷物を下ろすと、散策にでかけるより、まず話に花が咲く。旅の車中でさんざん喋っているにもかかわらず、菓子など勧め合いながら、話が止まらない。他愛もない話が明るい笑い声に包まれている。その会話の隙間に、鳥たちが盛んにさえずる声を聞いたのである。鳥も笑っている。それに気がついたとき、鳥よりも高い視界から、愛すべき小さな幸せの場を見下ろすことができた。人生の束の間の一場面に、深い満足と慈しみとを感じることができたのだ。この曰く言い難い機微が、さっと句の形に仕上げられている。 
 

  盆踊り人に生まれて手を叩く

 自分のことを、人として使令や役割を持って生きている存在だ、と思いたくない時がある。万物の霊長などでなくともよい。偶然のめぐり合わせでこの世にいて、今自分が何者で、何をしているのかまるで理解していない。そんなふうに愚かしくも無垢な存在であっていい、と思ったりする。掲句を詠んだとき、まさにそんな自分を夢想していた。盆踊りの最中に、今までの人生で得た知識や倫理を全部忘れて、「偶々ここにいる自分」にふと立ち戻る。禽獣昆虫、草木菌藻、土石山水。生物無生物の則を越えて漂泊、転生する魂としてみると、盆踊りの喧噪の中で腕を振り手を叩いているこの自分とは何なのか。果てしなく不思議で、果てしなく愉快な思いがこみ上げてくる。

  
  地獄とは柘榴の中のやうなもの

 かつて芥川龍之介は『休儒の言葉』に「人生は地獄よりも地獄的である」という警句を残した。彼のいう 「無法則の世界」の現実から見ると、いかに残酷無慈悲を装おうと地獄の責め苦は人間の想像力の範躊を出ることはなく、むしろ牧歌的ともいえる或る種ののどかさをもっている。柘榴の実の割れ目から覗く果肉は沸々とたぎる血のように赤く、味は人肉のそれに似るという迷信がある。実際には少し苦みのある、甘酸っぱい味がするそうだ。柘榴の中の異世界には、衝撃的に醜悪だが、視線を逃さない魅力がある。地獄もやはり一筋縄ではいかない多面性を持つ世界かも知れない。
 筆者はあとがきで、晩年の加藤楸邨らの革新的業績に触れ、「自分を変える旅をしたいと切に思っています」と記す。終わりなき旅の行方に幸あらんことを。

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