2011年3月 のアーカイブ

春の地震8・墓参

2011年3月19日 土曜日

お彼岸前後の土日だが、道中も小平霊園の中も閑散としていたのはガソリン不足のためなのか、あるいは電力事情による電車運休を考えて足踏みをしているのか・・・。私は取りあえず弟の車に乗せて貰って両親の墓参りを実行した。思うまま、伸び放題のままの霊園内の欅はまだ冬木のままだが、ほっとした風景がここにはある。桶を預けてある石屋さんで花とお線香や箒も用意して貰って墓の近くまで車で行く。帰りは使った桶やら箒やらをまた石屋さんに置いてくる。

石屋さんに桶を返してきた弟のお嫁さんが、車に乗りながら「お姉さんによろしくって、言ってましたよ」という。このごろは店にいるのは若い人だが、今日は先代のおかみさんが店にいたのだろう。「そうなの」と返事をしているまに、その店の前へ車が移動した。店の前に「よろしく」と言ったおかみさんが立ってお辞儀をしているのが見えて、あわてて窓を開けた。もう随分と長いお付き合いである。

昼食には早かったが、お茶でもということでジョナサンに寄ったら限定メニューしかありませんが、と店の人が言う。たしかに、いつもの写真入りの賑やかなメニューではない。パソコンで作ったような一枚の簡単なメニューはモーニングとランチコースが三種類くらいしか書いてなかった。ガソリンがないことがいろいろに波及しているようだ。やっぱりレストランくらいは賑やかなメニューからあれこれ迷いながら選びたいものである。

原子炉も少し落ち着いたのだろうか。今日あたりは町全部が避難するために観光バスに乗って故郷を後にする光景がよく画面に映し出される。埼玉のスーパーアリーナには福島の双葉町の人たちが1200人ほど避難してきたようだ。着の身着のままでやってくるのだから、ずいぶんと不自由ではないだろうか。町の業務もここ埼玉を本拠地にするようだ。たぶんこれからあちらこちらの町に分散して暮らすことになるのだろう。なんとか居心地がよいようにしてあげたい。

このところの経過を見ていると福島第1原発が無くてもなんとか生活は保てるようだ。そうだとすれば、もう原発はいらないのではないか。ことに福島の原発炉はすでに危険視されてきたものが放置されていたというニュースもある。どちらにしても、絶対起してはならない事故を起こした東電の責任は大きい。想定外などという言い訳は原子炉については言えないのである。

自販機を禁止するだけでも、電力は相当量余剰が出るはずである。この自販機について別の問題もある。水を売ることにともなうゴミを出すという仕組みがとても気になっている。

春の地震7

2011年3月18日 金曜日

仙台に娘一家が居住していることを知っている人からは「無事ですか」という声を何度も掛けられていた。その中には東海村に住んでいるマイミクさんもいて、ご自分は水の行列に並び、ガソリンの行列に並んでいるらしい。東北にばかり目が行っていたが、茨城も被災地なのである。

それで那珂港に住んでいるnさんを思い出した。「そちらは被災地なんでしょうか。何か必要なものはありますか」と、間抜けな携帯メールを発信してしまった。なんと、家は水を被って介護していた母親ともども家を離れたらしい。本が水浸しになってしまったとのこと。いやー、なんと返事を送っていいのか言葉もない。

家を流されて避難している人達は直ぐに家に帰れるわけではない。こうなったら助け合うしかかない。日赤の送金場所はテレビで繰り返している。

★東北関東大震災義援金の日本赤十字の送金口座は
■ 郵便振替(郵便局)
口座記号番号 00140-8-507
口座加入者名 日本赤十字社 東北関東大震災義援金

★群馬県片品村が、東日本巨大地震による福島県南相馬市の被災者約1000人を受け入れる。迎えの大型バス23台が18日早朝、被災地へ向けて出発した。

★アメリカの女優サンドラ・ブロックさんの100万ドルの寄付。
★イチロー選手一億円寄付

春の地震6(東日本大震災)

2011年3月17日 木曜日

きのう東北関東大地震と書いたが、呼び名が「東日本大震災」とも呼ばれているようだ。仙台の娘一家はようやく落ち着いたようだが、その落ち着きは電話が開通しての第一報で「長期戦覚悟」と結んでいるその覚悟から生まれた落ち着きなのだろう。

品物は送れない、駈けつける手段もないとすればとりあえずは銀行振り込みの送金でも何かの元気をつける足しにはなるだろうと思った。その話をしたら連れ合いも負けまいばかりに私の送金の何倍もの金額を明日送ると言う。確かにいくらあっても足りないだろう。まずは仕事が軌道になかなか乗らないと思うからだ。

毎日新聞夕刊には地震発生数日後から仙台在住作家・熊谷達也氏の大震災日記が紙面の4分の一位を占めて書き込まれている。ガソリンを買うために6時間並んだとか、スーパーマーケットのはしごでトイレットペーパーや風邪薬を求める話や水の確保方法などが記録されている。その合間に散乱した家の中の片づけをしているなどという記事。大方は同じ仙台に住む娘一家と同じようなパターンである。

この手記のなかで「ーーどうしても気になっていることがある。今回の地震が発生する2日前、3月9日の午前11時45分ごろに、今回とほぼ同じ位置を震源地とする、最大震度5弱、M7・3の地震が起きて、仙台もかなり揺れた。宮城県と岩手県の沿岸部では最大60センチの津波が観測されている。ーー」とある箇所は大いに私も気になるところである。

今日のテレビは福島原発の消火経過の実況中継のようなもので、スイッチをいれるたびに原発の焼け爛れたような写真が現れた。同じ毎日新聞には、原発が怖いと5家族19人が当てもなく南下して加須で助けられたという話。もっと遠くの出雲まで避難した2家族がいた。一人は火災の原発関係会社にいたらしい。だから、原発の怖さを一般より知っているのかも知れない。

携帯が、午後21:32分に千葉東方沖の緊急地震速報を伝えてきた。コートを来て身構えていたが揺れは感じなかった。これからやって来るのかも知れないと見回していたが天井から下がっている火災報知機の紐も揺れていないのはむしろ不気味だった。テレビは各地の地震速報を流しはじめていた。埼玉は震度3くらい。

いつまでもコートを来て突っ立っているわたしに連れ合いは揺れてないよというのだが、揺れているものを発見した。隣室の和室に吊ってある等身大の大鏡がゆらゆらしていた。エアコンの風がいくわけでもなく、無人の部屋の鏡はいつまでも規則正しく揺れていた。その鏡を手で押さえて揺れを止めてみたが、手を離すと揺れていた。その鏡が人に感じない揺れを一番敏感に察知することを知った。

春の地震5(東北関東大震災)

2011年3月16日 水曜日

今日はじめて午後6時20分にわが地域に計画停電が実行された。こんなときは月光の明るさが吃驚するほど存在感を持つ。電燈が消えた途端に窓から射しこむ月光がフェンスの影を部屋に倒してファンタスティックな模様を作っていた。

寝室の雨戸を閉めようとしていたときに、ベランダの上が妙に白っぽい。何が置かれているのかと顔を寄せてみるとなにもない。ベランダの上に塗られたリノリユームが月光を捉えているのだ。

階段を降りようとしながら電燈のスイッチに指先が行くのは、もうそういう習い性になっているのだ。点灯しないことを改めて認識しながら、そろそろと全く見えない階段を一歩ずつ下りた。それでも勝手知った我が家の階段の感覚は心得ているから慌てない。玄関の施錠を確かめるために戸口に立ったとき、ちょっと外を覗いた。やっぱり暗い。みんなどこも停電なのだ。

おやと思ったのは道路が濡れているように思えたことだった。雨が知らない間に降ったのかと思ったのだが、それは樹影だった。真向かいの薮の木立の影がくっきり輪郭をもって倒れてきていたのだ。まさにそれは「花影婆娑と」の光景なのである。

いやー、何十年となく住んでいたが、目の前の薮が夜も影を作るなんて思ったこともなかった。いつも我が家の前に街灯がついているので、そこに木立の蔭が映ることなど無かったのである。これも、東北関東大震災のお蔭かも知れない。

春の地震4

2011年3月16日 水曜日

地震以後カルチャーも句会も祝賀会も中止になったから、ほとんど家に居るのだが、時々の余震やら、よく掴めない被災地の様子やらで落ち着かない時間を過ごしてきた。昨日、やっと娘から電気が通じたとの連絡で一安心。

それでも、ガス水道はまだ通じないので、家でのお風呂は使えないらしい。どこかの銭湯が開くという情報を得て、並んで入ってきたという。30人ずつ30分と決められての入浴だったが、救われた思いだったとか。問題はガソリンである。3時間並んで10リッターしか買えないらしい。それでは3時間待っているうちに半分消費してしまうと嘆いていた。

ガソリンについては、こちらでも不足していて、スタンドが閉っているところもある。必要なものを送ってあげたいが宅急便も郵便局も宮城県は受け付けて貰えない。なんだか知恵がないような気がする。こんなときこそ郵送手段を発揮してもらえれば助かるのに。

それにしても地震に追い打ちをかけた原発事故はどうして起こったのだろうか。よくシステムが掴めないが、原発が地震によって止まるようにしてあったようだが、無理に止めたことが、次の事故を誘発しているようにも思える。作るときには高頭脳を寄せ集めて完成させたかもしれないが、それを管理する人たちに管理する能力があったのかどうか。今回の原発は、地震でも作動させておいたらどうなったのだろうか。原発事故は絶対起してはならないのである。

宮城県の北にある女川原発の村を訪れたことがある。友人に同行してその親戚に宿泊させてもらったのだ。その村は原発を受け入れたことで潤っているようだった。20年以上昔のことだが、当時過疎化している村には、あまり使われないという立派な体育館やら運動場などの施設が聳えていた。

春の地震3

2011年3月14日 月曜日

3月11日午後の地震は、時間が経過するごとにその大きさが更新された。マグニチュード9というのは歴史上でも日本では初めてである。世界でもこの数字に匹敵するのは、1700年1月26日21時頃の 太平洋岸北西部、カスケード地震 M 9.0~9.2、しか見つからなかった。その津波は日本にまで届いたという。

もう住み始めてから20年になる娘一家も、今回の地震にはさぞ驚いたことだろう。仙台市の泉区明石という場所は海から遠いので津波の心配はしていなかったが、今日14日にようやく電気が通じたそうである。まだガス、水道、電話も開通していなという。携帯は圏外になってしまうらしい。まれに繋がる携帯からのメールが、そんな報告を入れてきたが、最後には「長期戦覚悟」とあった。

まー大人3人だからなんとかなるのだろうけれど、瓦斯、水道、電気無しというのはいささか辛い生活ではないかと想像している。庭でよくバーベッキューをしている一家だから、外で原始的な炭火の煮焚きをしているのではないだろうか。新幹線が動くなら、食料を届けることも出来るのだが・・・。まだ宅急便も受け付けて貰えない。

それでも、津波に出会った人たちから比べれば、幸運である。この惨状は終戦直後の焼け野原に似ている。そうして計画停電というのさえ、戦後10年以上経ても経験していた当時の生活の再現である。どこかの国で「こんな大地震があったにもかかわらず日本政府も国民も、とても落ち着いていて、冷静で、日本国民の民度の高さには脱帽だ。」と言っていたが、もう呆然としていたのではないだろうか。どちらにしても、これからが大変だ。

春の地震2

2011年3月12日 土曜日

まったく凄いことになった。近隣の人は本箱の本が飛び出したとか、食器棚のグラスが落下したとかの被害くらいであるが、仙台市に住んでいる娘の家では、足の踏み場もないような惨事となって、夕べは片づけようにも電気もガスも使えない家にはいられないと、一家で古川の連れ合いの実家へ車で移動してた。老いた両親の見舞いも兼ねていたのだ。

多分世界的にも大きな地震なのではないかと思う。あまりに巨大であるけれど、日本は島国で細長いから、大きさを実感しずらい。列島の半分くらいが被害になったのではないだろうか。昭和20年3月10日が東京大空襲だったと思いだしていたが、60余年過ぎの翌日の11日にこんな大きな地震が来るなどとは想像していなかった。ににんの同人の中には外出していて、帰宅避難民になった方もいたという。

幸い外出もしていなかったので、家で地震の揺れを思う存分実感する羽目にはなったが、まずまず安泰というところである。ニュースを聞くたびに、想像していた災害の大きさを更新することになった。明治以来というその明治の災害は三陸地震のことなのだろうか。そのときもM8.2~8.5で、津波で2万人の犠牲が出たとか。

もっと昔の元暦の地震 (1185年)は余震は三ヶ月にもわたって続いたらしい。『方丈記』の記述のなかに、「海は傾きて陸地をひたせり」とある。文学的表現というのはやはり現実味が遠のくものである。絵本をみているような光景になる。今日の夕刊の記事は津波の跡の惨禍の写真が何枚も大きく掲げられていて、読むより解り易い実況を伝えていた。

原子発電でトラブルが起きている。テレビニュースはすべてそのことに集中している。

春の地震

2011年3月11日 金曜日

揺れがなかなか治まらない。どこに身をおいたらいいのか見回しても、何処が一番いいのかわからない。ふと百合の差してあるガラスの花瓶が目に入った。それをキッチンのシンクまで運んだ。いつもならそんなことをしているうちに揺れが止るものだが、今回の揺れは止りそうで止らない。その揺れも今まで体験したことのない大揺れで、これはきっと関東地方が震源地に違いないと思った。

揺れは断続的だがなかなか終わらない。戸外に出なければならないかもしれない。そう思ってバックに貴重品やUBSメモリーやらを詰め込んだ。その上で一月の雁を見に行くときに着たダウンコートを用意して、いつ外に出てもいい体制を整えた。そんなことをしながら目にしていたテレビからは三陸沖を震源だとする情報が流れて、ここよりもっと激しい揺れのある地域があるのを知った。

三陸沖を震源とするマグニチュード(M)8.8(暫定値)の地震は

・国内最大の地震 津波厳重警戒
・地震 全国で33人が死亡
・福島第一原発 緊急事態宣言
・福島第二原発も異常事態通報
・東海道新幹線が運転を再開
・帰宅困難者対策 都が本格化
・さいたまアリーナを開放へ

こんな見出しがつぎつぎに画面に現われて、千葉の石油コンビーナートの火災が映り、きりもなく国内最大の地震 津波厳重警戒という字幕が出る。

結局それから数え切れない余震で落ち着かなかったが、夕方ようやく仙台に住む娘の家に電話が繋がった。家の中の立っているものはみんな倒れ、冷蔵庫のドアーも開いて中から食糧が飛び出していたという。これから片付けなければならないが、足の踏み場もない状態のようだ。それから、また電話は繋がらなくて、その後の様子は分からないが、電気が遮断されているから、今夜はどうなるのだろう。

とりあえず我が家はテレビの上の木彫りの梟が床に転げただけで済んだが・・・。

島田牙城句集『誤植』2011年2月 邑書林刊

2011年3月2日 水曜日

肘掛に人を忘れてゐる人よ
夕方をさみしくなりぬ男の手
ひきつづき虚子の御恩や栗笑まふ
われからを見定めてより妻に色
地球儀のお尻に螺子や紋黄蝶

俳句の本領が余韻にあることを思い出させる句集である。しかし、本来余韻とはその描写された光景から湧きあがる余情である。しかし、この一集の余韻とはそれとは少し違うように思える。言い放ったそこからの空間を提示している。

一句目の「肘掛」にしても、作者の描写している位置から別の次元を視差している。だから、読み手はそこに書かれている光景の外側に視点を浮遊させることになる。それは2句目にも言える。多分、作者は俳句という形式と付き合いながら、それを越える形式を探っているのだと思う。

大竹多可志著『自転車でゆく「奥の細道」逆まわり

2011年3月2日 水曜日

 2011年2月 東京四季出版刊

この一書は自転車で奥の細道を辿った記録である。定年になって実行してみたいと願っていたことを行動に移したようだ。逆順だからもちろん大垣。二回目は夜行バスで、折畳自転車を携えて敦賀に行きそこから出発している。

芭蕉には忍者説があるが、大竹氏は忍者は曾良ではなかったかと考えたりして愉しそうな旅が書き込まれている。わたしも、曾良がたびたび芭蕉と別行動をとるのが不審であったが、忍者説があれば、謎を埋められる発展も・・。こうした旅が出来るのも大竹氏の親しみ易い性格が助けているだろう。

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