2011年9月17日 のアーカイブ

糸大八第三句集『白桃』 2011年 糸大八句集刊行会

2011年9月17日 土曜日

 作者は現在ご病気のようである。その状況から「円錐」の澤氏を中心に基金を募って、糸氏の句集を出版した。これは糸大八氏の作品を埋もれさせたくないという気持ちを形にしたものと受け止められる。

  板の間の軋む九月にさしかかり
  絵蝋燭点してゐたる鯨かな
  戸板一枚担ぎ出したる桃月夜
  木枯しとまがふ真赤な包装紙
  玉乗りの象をはるかに稲穂波
  つちふるや畳んでありし飛行服
  口に歯の無きは怖ろし蝉の穴
  雨傘を差して胡桃の木に集ふ
  蓮根を掘りたる他はみなまぼろし
  濁流を見て来て薄き敷布団
  海底を電車が走る青葡萄
  敗蓮に金の喇叭が吊しあり
  桐の葉の落ち尽したる能衣装
  狼の絶えたる国の鏡拭く

句は大方が日常のどこかを偶発的に切り取ったようにも思える。しかし、どの作品も日常が異次元へと運ばれてゆく内容である。

北川あい沙句集『風鈴』 2011年8月 角川マガジンズ

2011年9月17日 土曜日

  朧夜の運河にかかる橋ふたつ
  まつさをな巣箱は夢の中にあり
  レタスから少し離れて雨の降る
  街にゐて街のさくらを見てをりぬ
  端居して遠くの夜を見てゐたる
  うたた寝の夢より覚めて素足かな
  灯台を見てから髪を洗ふ夜
  風鈴の音色はきのふよりはるか
  手に持ちて葡萄は雨の重さかな
  秋風が吹けば聞こゆる海の音
  紅葉してゐる誰も居ない家
  煮凝は日の暮れてゆく街に似て
  極月の川の向うに街のあり

 序文の中で今井杏太郎氏が方丈記の書き出しの部分を引用し、それを甘えととるか無常観ととるかという提示をしている。北川あい沙氏は2000年に今井杏太郎氏の「魚座」から俳句をはじめた。一集にはその今井氏のやわらかなリズム、対象に向かう感性の透明感が満ちている。

関口勝夫第六句集 『天平』 2011年8月 東京四季出版

2011年9月17日 土曜日

  笹団子いづれも深き結び跡
  龍勢の桟敷の青竹露凝る
  見送りし競馬の砂塵顔を打つ
  十六夜の西湖円盤きらら照り
  犬と子をれんげの海へ解き放つ
  飼はれたるものより猛き鶏頭花

 旅の句が多いのは、即物的に眼前の風景と一体になりながらの作句姿勢の現れなのだろう。一句をといわれたら迷い無く「長昼寝覚めて捨子のごとく泣く」を選ぶ。昼寝の覚め際の茫洋とした気分が蘇る。

雨宮きぬよ第四句集『新居』 2011年8月  角川書店

2011年9月17日 土曜日

  春満月水が流れてゆくやうな
  くちなしの一重の雨となりにけり
  蓮の実の飛ぶよ火星の近づけり
  猫が水飲みに来てゐる薔薇の園
  ひとりづつみんな消えたる花野かな
  ひとしきり雪の匂へる雛かな
  拾はれて涼しき貝となりにけり

句集名「新居」は作者の出生地の旧地名だという。この旧地名を日表に出したところに、すでに作者の寄せる想いがある。俳句もまた、詠み手が視線を定めたとき、そのことが作者の想いを現わすものになるのだろう。それは絵画でも写真でも同じである。春満月のもとの水、雨の中のくちなしの花へ、蓮の実の飛ぶ彼方へ想いを馳せたときに作品となる。

日下野仁美第二句集『風の扉』  2011年8月 文学の森

2011年9月17日 土曜日

 雲雀鳴く揚がりきつたる雲の中
 花芒揺るるものより枯れにけり
 浮寝鳥さびしき時は向き変へて
 はじめなく終りもなくて蜷の道
 ボロ市の人出を映す古鏡
 千畳の一畳に立つ夏岬
 風の扉を押して花野の人となる

 対象への想い、それが雲雀の揚がった雲の中へ、そうして揺れるものから枯れてゆくという断定になり、向きをかえる浮寝鳥へのまなざしへ及ぶ。そうして、その想いが自身を風景の中の点景となるのだろう。

林 誠司第二句集『退屈王』  2011年8月 文学の森

2011年9月17日 土曜日

 又三郎いまも晩夏の山にをり
 腰に巻くセーター海は海のまま
 大南風鱗はがれてゆくやうな
 花南瓜子どもは風を連れてくる
 朝空のすでにおほぞらいぬふぐり
 大ホールに座つてゐたる海の日よ
 みづうみもしろがねなせり花芒

第一句集で俳人協会新人賞を受賞した俳人の第二句集。「わたしは自然も風景も社会も現代も上手に詠えない。詠えるのは私の人生だけである。」とあとがきに書いていることで、作者の覚悟のようなもの、作者の視点の在り処が見えてくる。
ページを繰るたびたえず駘蕩とした風が流れているように感じるのは、作者が海に近い横須賀に住んでいるせいかもしれない。手堅い作品群である。

八木忠栄個人誌『いちばん寒い場所』64号  2011年9月

2011年9月17日 土曜日

 創刊したのはいつだったのだろう。知る限りでは22号が 1996年12月。平均すると年二回ほど刊行していることになる。しかし、それ以前も詩の個人誌として『にぎやかな街へ』を発行していたので、個人誌を発行するのは八木氏の自作の作品確認の場になっているのはないだろうか。個人誌は単調になりがちだが、八木氏は詩と俳句と文章が盛り込まれて程良いひろがりを見せている。そのなかの俳句のみを抜粋してみた。諧謔の中に批判をこめている。時代背景を意識しなければシュールな映像にも見える。

  逃水に攫われてゆく園児たち
  掌に余る乳房と花の闇
  ふるさとは梅にうぐいす時々あんぱん
  炎天からぶらあんぶらんスカイツリー
  そぞろ寒こよい女は猫になる

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