笹団子いづれも深き結び跡
龍勢の桟敷の青竹露凝る
見送りし競馬の砂塵顔を打つ
十六夜の西湖円盤きらら照り
犬と子をれんげの海へ解き放つ
飼はれたるものより猛き鶏頭花
旅の句が多いのは、即物的に眼前の風景と一体になりながらの作句姿勢の現れなのだろう。一句をといわれたら迷い無く「長昼寝覚めて捨子のごとく泣く」を選ぶ。昼寝の覚め際の茫洋とした気分が蘇る。
笹団子いづれも深き結び跡
龍勢の桟敷の青竹露凝る
見送りし競馬の砂塵顔を打つ
十六夜の西湖円盤きらら照り
犬と子をれんげの海へ解き放つ
飼はれたるものより猛き鶏頭花
旅の句が多いのは、即物的に眼前の風景と一体になりながらの作句姿勢の現れなのだろう。一句をといわれたら迷い無く「長昼寝覚めて捨子のごとく泣く」を選ぶ。昼寝の覚め際の茫洋とした気分が蘇る。
春満月水が流れてゆくやうな
くちなしの一重の雨となりにけり
蓮の実の飛ぶよ火星の近づけり
猫が水飲みに来てゐる薔薇の園
ひとりづつみんな消えたる花野かな
ひとしきり雪の匂へる雛かな
拾はれて涼しき貝となりにけり
句集名「新居」は作者の出生地の旧地名だという。この旧地名を日表に出したところに、すでに作者の寄せる想いがある。俳句もまた、詠み手が視線を定めたとき、そのことが作者の想いを現わすものになるのだろう。それは絵画でも写真でも同じである。春満月のもとの水、雨の中のくちなしの花へ、蓮の実の飛ぶ彼方へ想いを馳せたときに作品となる。
雲雀鳴く揚がりきつたる雲の中
花芒揺るるものより枯れにけり
浮寝鳥さびしき時は向き変へて
はじめなく終りもなくて蜷の道
ボロ市の人出を映す古鏡
千畳の一畳に立つ夏岬
風の扉を押して花野の人となる
対象への想い、それが雲雀の揚がった雲の中へ、そうして揺れるものから枯れてゆくという断定になり、向きをかえる浮寝鳥へのまなざしへ及ぶ。そうして、その想いが自身を風景の中の点景となるのだろう。
又三郎いまも晩夏の山にをり
腰に巻くセーター海は海のまま
大南風鱗はがれてゆくやうな
花南瓜子どもは風を連れてくる
朝空のすでにおほぞらいぬふぐり
大ホールに座つてゐたる海の日よ
みづうみもしろがねなせり花芒
第一句集で俳人協会新人賞を受賞した俳人の第二句集。「わたしは自然も風景も社会も現代も上手に詠えない。詠えるのは私の人生だけである。」とあとがきに書いていることで、作者の覚悟のようなもの、作者の視点の在り処が見えてくる。
ページを繰るたびたえず駘蕩とした風が流れているように感じるのは、作者が海に近い横須賀に住んでいるせいかもしれない。手堅い作品群である。
創刊したのはいつだったのだろう。知る限りでは22号が 1996年12月。平均すると年二回ほど刊行していることになる。しかし、それ以前も詩の個人誌として『にぎやかな街へ』を発行していたので、個人誌を発行するのは八木氏の自作の作品確認の場になっているのはないだろうか。個人誌は単調になりがちだが、八木氏は詩と俳句と文章が盛り込まれて程良いひろがりを見せている。そのなかの俳句のみを抜粋してみた。諧謔の中に批判をこめている。時代背景を意識しなければシュールな映像にも見える。
逃水に攫われてゆく園児たち
掌に余る乳房と花の闇
ふるさとは梅にうぐいす時々あんぱん
炎天からぶらあんぶらんスカイツリー
そぞろ寒こよい女は猫になる
9日の夜から始まった東京ポエトリー・フェスティバルも無事に11日に終った。私の出番は11日の午前中。トップの朗読者は岡井隆氏で、80歳を越えていると読み始める前におっしゃったが、なかなか力強い朗読だった。いろいろな朗読者がいるもので、ギネマと名乗る朗読者の名前から外国人かと思っていたら、日本の女性。「演じる俳句」と言ったほうが解り易い。すでにいろいろな舞台で演じてきているようだ。
引き受けるときには、そんなにたくさんの句を朗読するとは思っていなかったが、「神話、その彼方へ」をテーマに25句を朗読することになった。過去の作品からのテーマに添った抜粋で選んだ句は以下の作品。「神話、その彼方へ」とは私なりにすべてのものが共存する世界、というふうに受け止めた。その共存の世界を詠んだもので、編集したのが以下の句。とにかく三日間連続は疲れたー
国津神
太古より壺は壺形初明り
終の雪白樺に降り馬に降る
名にし負ふ黄泉比良坂シャボン玉
伊邪那岐に伊邪那美ありて亀鳴けり
花ミモザ地上の船は錆こぼす
春眠のどこかに牙を置いてきし
十二使徒のあとに加はれ葱坊主
恋猫のために踏切り上がりたる
語るたび瞳に夏雲を映しをり
噴水の虹は手にとる近さなる
逢ひたくて螢袋に灯をともす
金銀の毛虫は何処へいくのやら
天上天下蟻は数へてあげられぬ
緑蔭の馬の生年月日読む
スカンポを国津神より貰ひけり
国涼し一番鶏に目覚めては
魂も柘榴もひとつとかぞへをり
鬼の子や昼とは夜を待つ時間
角(つの)のなき鹿も角あるごと歩む
地獄とは柘榴の中のやうなもの
まるごとが命なのかも海鼠とは
狼の闇の見えくる書庫の冷え
かたはらに獏も冬眠するらしき
天地(あめつち)に影置かぬ鳥冬の旅
万の鳥翔ちて一羽の白雁も
お茶ノ水の明大(紫紺館)で第2回東京ポエトリー・フェスティバルの前夜祭が行われた。今回の主催者はヤキモキしたに違いない。なにしろ福島原発の崩壊直後であるから。それでも台湾・中国・モンゴル・オーストラリアなどなどから、多くの詩人が集まった。その集まった中のおひとりの血縁にあたる方がいるとかでジュデイオングさんも参加して、乾杯の音頭をとった。
明日から本格的な朗読の場面が展開する。あらかじめ朗読の参加者たちの詩・俳句・短歌は活字になっていて、それぞれ翻訳もされているから手元で目でも確かめられる。以前、海外の俳人たちとの交流で中国やドイツ・イタリアを訪れたことがあるが、詩、短歌、俳句の混成ははじめての体験。
わたしは11日の午前中で、25句を朗読することになっている。
番矢さんから依頼があったとき、そんなにたくさん朗読するとは知らずに引き受けてしまったが、私の作品の翻訳を引き受けてくれた高澤さんは100句くらい朗読するところもあるという。そんなにたくさんの朗読をしたら、多分作品が印象に残らないのではないだろうか。帰り道でオオストラリアから来た方と一緒になった。四つ角で迷っているみたいで、直進するとお茶ノ水駅だというと、「そこへ出れば分かりやすい」というのでご一緒した。今夜は満月みたいだったが、満月は11日らしい。
「ににん」編集中は終了するまでにいろいろあるので、、先ずは「編集中、1」としておいたが、今日はもうあっさりと終了の記事にとなった。なにも無いわけではなかったが、胃薬を飲みながらの仕事はもうそれだけで精一杯になるのだ。ブログを頻繁に更新出来るのは余力があるということなのだと知った。
八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり
夕べ初校を確認し終って印刷所にデーターを送信して気がついたら、午前2時を過ぎていた。そうして今朝は紙焼きも投函して編集完了。後は再校を待つだけ。郵便局の帰りにいつもの散歩道を辿ると黒目川には鷺がひっそりいるだけだった。和歌山の熊野や奈良の天川村などでは、12号台風の余波でまだまだ濁流が渦巻いているのかも知れないが、黒目川はよく澄んでいた。
金網に絡みついて咲き昇っているヘクソカズラの花。これを漢字に書くと尚かわいそうになる花。でも見ればみるほど可愛い花である。茶花としても使えそうである。野葡萄はこれからもっと色づくのだが、これも食べらるというわけでもないので、野に放っておかれる植物である。暑くて散歩をする気にもならないでいたが、いつの間にか秋は来ていた。
HTML convert time: 0.199 sec. Powered by WordPress ME