俳論アンソロジー『俳句とは何か』という極めて直截的なタイトルである。
句作をするということと「俳句とは何か」という問いかけをしてゆくことは俳句に関わる中での両輪なのである。
栗林氏はそうしたテーマを底流におきながら、俳句を作り続けてきていた作家である。そうして高浜虚子・山本健吉・高橋睦郎・小林恭二などなどの俳句論を考察のあと、解説にかえて「私にとっての俳句とは」で終わっている。
この構成をみても、読みやすく、しかもわかり易い一書である。
俳論アンソロジー『俳句とは何か』という極めて直截的なタイトルである。
句作をするということと「俳句とは何か」という問いかけをしてゆくことは俳句に関わる中での両輪なのである。
栗林氏はそうしたテーマを底流におきながら、俳句を作り続けてきていた作家である。そうして高浜虚子・山本健吉・高橋睦郎・小林恭二などなどの俳句論を考察のあと、解説にかえて「私にとっての俳句とは」で終わっている。
この構成をみても、読みやすく、しかもわかり易い一書である。
子供の遊びと言えばシャボン玉や凧揚げを思い出す。
歳時記ということばに季語を思い出してしまうのだが、「てるてる坊主」や「度胸試し」「お手玉」のような遊びが次々出て来る。
殊に興味の惹かれるのは遊びの場で意味も知らずに唄っていた歌がたくさんでて出て来ることだ。
一書は以前に刊行した『松青々全句集 上・下巻』に続く別巻なのである。
後書きを読むと、「運河」創刊の右城暮石が松青々の全句集に取り組みたいと口にしたのは、昭和28年ごろだったとある。青々の全句集出版は「運河」を暮石から継いだ茨木和生氏に引き継がれてようやく完成したもの。
凄い大仕事である。
一書はタイトル通り歳時記形式に編纂したもの。一句ごとに全句集の収録頁が書き込まれている丁寧なものである。改めて結社を継ぐということ認識する仕事ぶりである。
熊野を訪れた人々、熊野を歌った人々を、熊野に棲んだ人々の作品から熊野を浮かび上がれせている。筆者谷口氏は神道以前にあって日本の原始宗教は、山川草木、自然界すべての物事に魂が宿り、あらゆる現象はその意志や働きに拠るとするアニズムであると、その跋で書き始めて、ーー本書をご覧頂く際、頁を捲ってふっと触れくる熊野の気、ひょいと顔を覗かせる歌びとたちの魂を感じて貰えれば幸いですーーと結んでいる。
熊野は不思議で奥深い風土である。
栞 星野高土・加藤瑠璃子・酒井佐忠
けやき散るけやきの胸を冷たくし
棉を吹く悲しいときはかなしくて
満開のさくらさくらに燐寸摺る
愛憎も三月十日以後不通
さくら蕊降るよ嬰児わたされて
爽けしや虚子きょしきょしと米磨いで
『鴎座』主宰松田ひろむの句集『游民』はどこを開いてもそのお人柄の洒脱さを表現に表われている。
お人柄というものは句柄と同じかもしれないと思うのは松田氏の句集を読んで改めて感じた。初めてお目にかかったのは雄山閣出版で歳時記を編む一員として出向いたときだったから、すでに12,3年は経っている。
真摯な俳句への意気込みを奥に秘めながらか、洒脱な親しみ易すさがいい。
かなかなの次の鳴く声じつと待つ
薄墨の花の散り際去り難し
花びらの散りゆく先は深き谷
大家族なごみし炉火を今も焚く
「天弓」主宰の第二句集は、そのタイトルが表わすように、白川郷は歩きなれている土地なのではないだろうか。あえて、白川郷の特長である合掌造りを、ことに詠んでいるわけではないが、清浄な空気が風土を蘇らせる句が随所にある。ほとんどの頁に植物の句があることも風土の影響なのだろう。
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