2014年9月 のアーカイブ

十五夜の山ぞろぞろと歩きだす   酒井弘司

2014年9月8日 月曜日

散文でこの情景を書き留めようとすれば、随分とことばを使うことになるだろう。いつもよりは山の頂もよく見えて、歩いていれば山もついてくるかのようである。

月を愛でたいと思う心が織りなしてゆくこの光景は、十五夜のもつ不思議な華やぎを言い留めている。(長靴をはいて身にゆく朝桜)(武蔵野のみみず土から顔を出す)(すかんぽと半鐘の村であった)(大欅に呼ばれ出ていく三日かな)など、自然を見詰めた秀句が多い。2014年8月ふらんす堂『谷戸抄』より(岩淵喜代子)

いつからか即かず離れず夏の蝶    河村正浩

2014年9月7日 日曜日

俳句は対象をいかに読み手差し出すかというところにある。読み手もまた、差し出された対象を自らの体験を加えた感性で、受け止めるのである。そうして俳句が作り手から読み手に手渡されて完成するのである。

蝶などは、句にするには戸惑ってしまうほど日常的な生き物で、どう読んでも同じになりそうな気がする。作者はその蝶をあっさり出会ったままを書き留めたかのように、淡々と読み上げている。ここでの特筆することは(いつからか)である。

(即かず離れず夏の蝶)は夏の蝶の姿として卑近なことだが、上五の(いつからか)の措辞によって人生と置き換えら重厚になった。(2014年7月山彦出版・第5句集『春宵』より)

自動ドアひらくたび散る熱帯魚    岡田由季

2014年9月6日 土曜日

きわめて単純化させた切り取り方の句である。自動ドアーというから大きなビルのフロアー、それは銀行の入口、または美術館とか文学館などの入り口と、さまざまな入口の場面が思い浮かぶ。ドアーが開くたびに、まるで驚いたかのごとく熱帯魚が散らばっていくのである。
描かれているのはそれだけなのだが、否それだけだから、熱帯魚がいきいきとしている。自動ドアーという無機質なものの提示で描き出される風景の中で、熱帯魚がますます鮮やかに際立ってくる。知的な感性を発揮した取り合わせの句である。(2014年7月現代俳句協会新鋭シリーズ・句集『犬の眉』

『新俳人探訪』   栗林 浩   2014年9月 文學の森

2014年9月5日 金曜日

栗林氏の『俳人探訪』は、『続俳人探訪』『続々俳人探訪』と、すでに三巻出ている。今回の書をあえて『新俳人探訪』とした意には触れていないが、興味本位ではなく作家を追いたいという意志が書き込まれている。そのあたりに、『俳人探訪』の意気込みや姿勢を感じる。

目次

1・京極杞陽―その作品と人
2・下田実花―新橋の名妓にして俳人(山口誓子の妹)
3・佐藤鬼房と3・11―俳句の力(鬼房の風土俳句と東日本大震災)
4・悲劇の俳人とテキスト論
5・中谷寛章―夭折の俳論者・影の運動家
6・永遠の童女―柿本多映(名刹三井寺、その環境と多映の俳句)
7・文挟夫佐恵の『白駒』を読んで

8・短編集として
8-1糸大八句集『白桃』を読んで
8-2秋山真之
8-3中村草田男(俳句作家へのアプローチ)
8-4松本たかし想望
8-5村越化石さんのこと

九・巻末に「私の写生論」

氏の文章には情熱を感じる。要するに興味を持った作家を追う情熱なのだと思う。しかし、その自分の情熱に対して面映ゆさを感じて、後書きに登場させた俳人の多色さ述べ、節操を欠いているのではと自戒している。しかし、文章、ことに評伝や評論は書く対象の作家に情熱を感じるところから、書く一歩があるのだ。そうでなければ、読者にとっても面白くない。今回の栗原氏の一書は、作者の情熱が読ませる弾みになっていて、一気に読み通すことができた。

針山に休める針や冬の雨    利普苑るな

2014年9月4日 木曜日

針山に休める針や冬の雨    利普苑るな

針山とは、縫い針や待ち針を刺しておくもので、裁縫箱の中の主役かもしれない。使用するときにはそこから抜いて、用が済めば針山に戻しておく。たしかに、針山にある針というのは休んでいる針である。その提示によって、針山を中心に据えた日常の景が広がり、さらにそれらの背景として冬雨の戸外の景が広がってゆく。
針山に休んでいる針、という措辞を選んだとき、作者の視野には針のようにきらきらする冬雨が見えていたのだろう。利普苑るな氏の作品は「ユダの如く歩みて木の実時雨かな」「名画座の隣は八百屋しぐれ来る」など何気ない風景を非日常へ置き換える冴えが快い。(利普苑るな第一句集『舵』・2014年9月 邑書林)

脚高く生れて鹿の子歩きけり   村上蛃魚(むらかみ・へいぎょ)

2014年9月3日 水曜日

鹿の子をしみじみ見たことはないのだが、(脚高く)と言われればその特徴を納得するのである。鹿の子の脚は細くて長いということなのだが、それを「脚高く生れて」とすることで、鹿の子の運命へ重心が移ってゆく。静かに脚を運んでいる鹿の子が神々しくさえ見えてくる。(舟で見る日永の海の人魚かな)(恋猫に天秤棒を投げにけり〉)。1867(慶應3)年生れ。大正期に活躍した「ホトトギス」の俊英で、高浜虚子の「進むべき俳句の道」にも取り上げられた32人の一人である。 林桂氏の編纂で計画から10年の歳月をかけて出版された。(風の花冠文庫『夜雨寒蛩(やうかんきょう)』)

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