次の間で溶けだすをんな十二月
知恵の輪に遊ばれてゐる冬ごもり
冬渚ひとりあるけばぜんぶ冬
春の宵雲それぞれに寝相あり
油照りゴッホの耳を拾つたよ
逃げ水に攫はれて行く園児たち
ころがつて春のバケツになりました
バケツの句はその形から意外な転がり方をする。作者が見ているのは転がっても転がっても、倒れたあたりをぐるぐる転がっているバケツ、まるでバケツ自身の主張しているようだ。
次の間で溶けだすをんな十二月
知恵の輪に遊ばれてゐる冬ごもり
冬渚ひとりあるけばぜんぶ冬
春の宵雲それぞれに寝相あり
油照りゴッホの耳を拾つたよ
逃げ水に攫はれて行く園児たち
ころがつて春のバケツになりました
バケツの句はその形から意外な転がり方をする。作者が見ているのは転がっても転がっても、倒れたあたりをぐるぐる転がっているバケツ、まるでバケツ自身の主張しているようだ。
春の鹿同じ貌して坐りけり
縁側を歩いて見せて烏の子
鳥の貌入れて枯木は手をつなぐ
死ぬことを忘れてゐたる十二月
もう一度坐り直して花の下
年齢からくる悠揚とした心境、そうして達観の境地から見える風景は自己と対象物とが同じ次元に置かれている。鹿が同じ顔して坐るという捉え方は、こう表現されることで個性になるのである。
朝市の地べたに雛飾りをり
美術館春の氷を育てをり
動物園春ストーブのがうがうと
呼ばれたるごと花吹雪花吹雪
百合ありしところに百合の花粉かな
風渡るところが動き青みどろ
意外なところに置かれた季語が新鮮である。美術館にある氷はことに美しく感じるし、動物園の中のストーブも意外な存在である。百合があるところに百合の花粉があることは当たり前なのに、この叙述が深遠な世界へ誘われる。
ひたひたと来て雁風呂を燻べたしぬ
茶柱が立つたり鶯が来たり
雁帰る攫はれたくもある日かな
塩炒つて夏の日暮をひとりきり
流れ来る桃を百年待つとせむ
椎咲くと男が先に言ひにけり
風土が句を生みだす、ということはよくあることではあるが、関西俳人の風土は言葉にまず現れるような気がする。
八月の数字の跡の残りたる
鳩の目の離れてゐたり花の雨
春の炉の指にかぶつてゐる光
アカシアの花どこまでも手を振つて
一月の電気に紐のぶら下がる
冬めきて英和辞典にゐる家鴨
冬眠の前にさびしくなつておく
ペンギンは瞼を閉ぢて夜の火事
1974年生、「炎環」「豆の木」所属。第一句集と呼ぶにふさわしいナイーブナ句集である。詠まれている光景は日常の誰にでも見えているもの。それが作者の感覚で組み合わされた季語によって不思議な空間をつくりだすのだ。
壺みんな上向いている秋日和
切り株が道をふさいでいる朧
ベットから見ている向日葵畑かな
蚊を叩くあおだもの木が揺れている
急速にアスパラガスとなる二人
靴べらが時々揺れる秋の昼
著者略歴の途中に「2011年秋より野菜作りを始める」とある。そして、後書きは、作者の住む京都亀岡市の中心に、亀山城址があり、そのなかに植物園がある。というこたが書き込まれている。そこは家族の散歩コースになっているが、そのお気に入りの植物園の入口に句集名の「あおだもの木」があるという。この記述に作者の日常の視線を感じる句集である。
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